ペンテコステの朝です。約2000年前に弟子たちが一つところに集まって祈っていたところに、イエス様が約束されていた聖霊が(使徒1章8節)激しく臨まれ、そこにいた人々は聖霊が語らせてくださるままに(使徒2章4節)他国のいろいろな言葉で話し始めました。この日は、この世界で「教会」が初めて誕生した日であり、ここから宣教がスタートしてゆきました。2000年経ったこの東の果ての日本まで、イエス様の福音が語り広められ、私たちはその恵みに預かることができていること。神様の愛のみわざに感動します。
あちらこちらでさまざまな紫陽花が咲き、美しさに見惚れます。教会の愛する婦人がお庭の紫陽花を持ってきてくださいました。その名も「ダンスパーティ」!確かに!そんな感じが溢れるアジサイです♡そしてそんな賑やかな小さなお花がたくさん集まっているようなアジサイを見ながら「教会みたいだなあ!」とペンテコステにふさわしいお花だと感動したことでした♡感謝します(((o(*゚▽゚*)o)))
さてみことばは「必要なことは一つ」と題してルカ書より。
今週で一旦ルカ書の講解説教は終わり、来週から第二サムエル記へと移ってゆきます。
このルカ書を通して主が語られたことを一つ一つ思い出しながらのみことばの時となりました。
この箇所は先週に続き有名なみことばです。
姉妹である「マルタ」と「マリヤ」のお話です。
イエス様はこのルカ10章の初めにおいて72人のお弟子たちを、ご自分がゆくつもりのすべての町や場所に二人ずつお遣わしになりました。(ルカ書10章1節)
きっとこのマルタとマリヤの元にもお弟子たちが訪れていたことでしょうと語られました。
そして、彼女らはその福音・イエス様を信じ受け入れ、イエス様がこの家を訪れられた時、単なる客としてではなく、イエス様を「師」としてお迎えしたと言うことがわかるのです。
40節でマルタがイエス様を呼ぶときに「主よ」と呼びかけていることからもそう理解できます。このマルタとマリヤの姉妹にはラザロという弟がいて、彼らの両親はすでに亡くなっていたと推測できます。彼らは3人兄弟仲良くこの家で暮らし、エルサレムと他の町まちを行き来する際にイエス様はよく弟子たちと共にこの兄弟の家に立ち寄り休まれていたことを見るのです。
マルタとマリヤは師である愛するイエス様と弟子たちを心から迎え、食事や場所を提供するために様々な準備を喜んでしていた良き姉妹でした。
この日も、長女のマルタは腕によりをかけて料理をしたり、掃除をしたり、パタパタと15人近くの人々の接待に心せわしなく動き回って奉仕をしていたのです。素晴らしい奉仕です。しかし、あちらこちら走って準備をしていた時に、ハタと気づくのです。
「あれ?私一人、なんでこんなに忙しいの?マリヤは?」気づけば、手伝いに頼りのマリヤは、なんとイエス様の足元でゆったりとそのお言葉に聴きじっと座っていたのです!
マルタの怒りは頂点です。ただでさえ忙しいのに!猫の手も借りたいほどなのに!いったいどうしたことか!あまりに頭にきたので、マルタはなんとマリヤに直接注意するのではなく
イエス様に言いにきたのです。
「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、なんともお思いにならないのですか。私のお手伝いをするように、おっしゃってください!」と。聖書にはエクスクラメーションマークはついてませんが、きっとそんな勢いはあったことでしょう。目の前にマルタの怒りと、それでもじーっとイエス様の方を見上げているマリヤの静けさが浮かんできます。
長女の気持ち、少しわかる気もします。(次女も三女もおもてなしの心はもちろんシッカリあると思いますが(^^))イエス様のことを「責任を持って」最上にお迎えし、おもてなししなければ!とそんな思いでいっぱいだったことでしょう。
しかし、ここでマリヤはサボっていたのか?Noです。マリヤもイエスさまの前に仕えていたのです。マルタは見える仕え方をしていた、そしてマリヤは見えないけれども「聴く」ことによってイエス様に仕えていたのだと語られました。
私たちは礼拝で主の前に立ちます。みことばが語られる時に、説教者がみことばを「語る奉仕」をするのと同時に実は会衆は主の御元にきて、「聴く奉仕」を、その時しているのだと語られました。
マルタも初めはそうだったのでは?最初はイエス様のところに座ってじっと話を聞いていたのでは?しかし、次第に色々なものに心が落ち着かず、脇道に引っ張られ、本筋から脇道へとそれていってしまったのではと語られました。
初めはイエス様の話をマリヤのように聞いていたのです。ところが、そこから離れて、他の方へと立ち、気づいたらせわしなく動き回っていたという具合です。
このマルタにイエス様が諭すように優しく言われた様子が次のみことばです。
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリヤはその良い方を選びました。それが彼女から取り上げあられることはありません。」(10章41−42節)
「優先順位」という言葉が語られました。
「自分がせねば!」と今自分が優先していることは、本当に神のみことばを聞き礼拝を捧げること以上に大切なことだろうか、と。
私たちはいつも、神の前に出て、自分を吟味し、神がどのように私がすることを、選ぶことを望まれているのかを聞かねばならない。
信仰において「神様の言われることに耳を傾け、そこに生きること」は非常に大切なことである、と。
イエス様がここで、マルタとマリヤの奉仕を比較し、優劣をはっきりつけてマルタの奉仕を低くされているということではないということも語られました。イエス様は二人がどんな心もちでもてなしてくれていたのかもよくご存知だったのです。
イエス様をなんとか喜ばせたいと一生懸命動き回り食事の準備に励んでいたマルタ。
イエス様の御思いを汲み取ろうとじっとお話に聴き入るマリヤ。
イエス様はしかしマルタに対して、「仕える」ということに度が過ぎていないかと指摘されているのでは?と語られました。
このルカ10章40節のイエス様へのマルタの言葉の中に「私の姉妹が私だけにもてなしをさせている・・」といったくだりがあります。これは使徒6章2節において初代教会が大きくなり、食事の配給に支障が出て問題となった際に、使徒たちが「私たちが神のことばを後回しにして、食卓に仕えるのはよくありません」と話しますが、その「後回し」という言葉と同じ言葉が使われているのだと語られました。
気忙しく動いていたマルタの姿はまさに、みことばを「後回し」にしている姿であり、
イエス様がこの10章で語られた「幼子の心」を持って(10章21節)幼子の目、幼子のような耳を持ってイエス様の元に来て「みことばに聴く」マリヤの姿は主の前に何よりも尊い最大の奉仕であること。
そしてこの姿こそ、私たちが目指してゆくべき「たった一つの姿」であることをもう一度教えられました。
主の前に、この一つを持ってお仕えしてゆきたいと願わされたことです。
「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日のかぎり、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。詩篇27篇4節 聖書」
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