2021年がスタートしました。新しい年も主のみことばに立ち、より頼み歩む一年とされたいです。
みことばはルカ6章39−42節より「目にある梁」と題してメッセージが語られました。
❶真の教師イエス様から学ぶ
39節を通して、私たちには、自分が無知であるのにも関わらず、それに気づかず、他者を導こうとする傾向があること、その結果、他者や仲間を誤った方向に導いてしまいかねないということ。考えさせられました。
以前水族館に「目の見えない魚」というのが展示されていました。
なぜ、目が見えなくなったのか。そこには、元々目が見えていた魚が何らかの理由でずっと光が閉ざされていた場所に閉じ込められ、何世代も経ていく中で、目が退化してゆき、代わりに他の器官が発達して、暗闇の中でも適応して生きられるようになったという説明が記されていました。
何が原因かわかりませんが、魚が集団で行動することを考えるとリーダーの魚に従った他の魚が暗闇に閉じ込められたということも考えられます。
私たち人間にとっても、導き手がいかに大切か、考えさせられます。
使徒パウロは偉大な伝道者であり、教師でありました。新訳聖書の三分の一は彼による書簡であり、それは諸教会への手紙、後輩への牧会の教えなど、明日殺されるかもしれないという獄中で書かれたものばかりです。
その彼ほどの人がピリピ3章12節で
「私はすでに得たのでもなくすでに完全にされているのでもありません。ただ、捕らえようとして追求しているのです。」と語っています。
パウロのへりくだった謙虚な姿勢に教えられます。そして、私たち一人一人を真の意味で理解し、正しく導くことのできるお方は、全知全能の神様お一人だけであることを改めて知るのです。その神様が、私たち一人一人のために、大切なひとりごイエス様を送ってくださいました。そしてイエス様を通して私たちに、ご自身の御心を示してくださいました。
ですから、私たちが、真の教師としてイエス様の姿から学び、訓練を受け、従っていくことがとても大切なのです。
❷偽善者になっていないか吟味する。
41−42節にはちりと梁のたとえが記されています。
「あなたは兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください。』とどうして言えるのですか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。」
ここで「あなた」と言われている人は、どんな人でしょう。よく気付く人であり、問題ではないのに問題だという人、良い指摘でなく、人に厳しく、他人の欠点がよくわかり、助けてあげたいという憐みや愛からではなく、相手よりも優位に立ちたいという優越感の表れからの言動が多いことが挙げられました。
イエス様は、このような人を偽善者と呼ばれました。果たして自分はどうでしょうか。
❸偽善者にならないためにはどうしたら良いか。
それは42節の後半に語られています。
「まず自分の目から梁を取り除く」ということです。自分自身を厳しく吟味し、正直に誠実に自省することをイエス様は私たち一人一人に求められています。
教会においてこの機会が設けられているのは「聖餐式」です。
第一コリント11章28節に、
「誰でも自分自身を吟味して、その上でパンを食べ杯を飲みなさい。」と語られています。
洗礼を受ければ自動的に聖餐を受けれるというのではなく、一人一人が、聖餐を受けるときに、自分の信仰者としての歩みを振り返り、あずかるにはふさわしくないものであることを神の前に告白し、悔い改めるということが求められているのです。
ただキリストを信じたというところに留まるのではなく、自分の信仰を省みて、点検するということの大切さを思います。
George Whitefileldという18世紀のイギリスの伝道者が自分を吟味するために用いた点検リストというものがあり、それが紹介されました。
1・個人で祈る時、熱心であったか。
2・所定の祈りの時間を守ってきたか。
3・毎時間、神に短い祈りをささげたか。
4・慎重なあらゆる言動の前後に、それがいかに神の栄光を現すかを考えたか。
5・あらゆる喜びの後、すぐに神に感謝したか。
6・その日のための仕事は計画通りであったか。
7・すべてにおいて単純で落ち着いていたか。
8・なしうる正しいことを成すことにおいて熱心であったか。
9・全ての言動において柔和で、快活で、もの柔らかであったか。
10・誇ったり、鼻にかけたり、他の人を羨ましく思ったりしたか。
11・飲むこと、食べることに節制したか。感謝にあふれていたか。寝過ごさなかったか
12・神に感謝するために時間をとったか。
13・学びにおいて熱心であったか。
14・他の人のことを悪く考えたり不親切に語ったりしたか。
15・全ての罪を告白したか。
この伝道者が定期的に自己の信仰を点検することで自分が偽善者にならないようにと努力されていたことを知りました。私たちもまた心痛みつつも、自己の信仰を点検することは、偽善的な信仰者になることから守られるようになるということ。自己の欠点を克服できる人のみが、他者を公平に見ることができ、また真に助けることができる。しかしそれはなかなか難しいことでもあり、完全になることなど不可能なことであるが、イエス様の語られたみことばを受け止め、心に留めておくことが大切である事を示されました。
自らを吟味し、また自分の目にある梁に気づかせていただく。ここから、新年がスタートです。
「神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ。あなたはそれを蔑まれません。 詩篇51篇17節 聖書
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