みことばは、ローマ書7章15節から25節まで、「罪の奴隷の嘆き」と題してメッセージ。
エリート中のエリートであったパウロ、キリストと出会ってからはこの人が祈れば病も癒され、地震が起こり、牢の鎖が解ける、そのように宣教においても、力においても祝福されていた彼が、自分を罪の奴隷とし、「私には自分のしていることがわかりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ、自分が憎んでいることを行っているからです。…私は本当に惨めな人間です。誰がこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」
そのように嘆いています。後世にもずっと記録される聖書にこのような告白をしたパウロは、神様に救われた後の方がさらに葛藤を覚え、第二テモテ3章12節では「キリストイエスにあって敬虔に生きようと願う者は、皆迫害を受けます。」と言っています。
それならば、その絶望の淵からどのように這い上がれば良いのでしょうか。
努力でしょうか。いいえ。
パウロはローマ7章24節で
「私は本当に惨めな人間です。だれがこの死から救い出してくれるのでしょうか。」と嘆いています。
が、驚くことに、その次の節で
「私たちの主イエスキリストを通して、神に感謝します!」と
告白、主を賛美しているのです。
パウロは、「私の力ではダメだ。そうだ、降参することだ。」と。私にできることは
「私にはできません」というところから始まっていくことだと、ここで気づき主に目を上げていくのです。
以前にもでてきましたが、パリサイ人と取税人の話がありました。
パリサイ人は、神様の前に祈るときに、「私は献金しています!断食しています!全部できています!」と自分を誇りました。しかし一方で、当時は罪人と見なされていた取税人は
自分の胸を打ち叩いて、主の前に、「あなたの言われるように生きたいのです。でもできないのです。どうか赦してください。助けてください。」と嘆き、憐みを請い、祈るのです。
私たちも後者の取税人のように、己を低くして、できないままの自分を神様の前にさらけ出し、祈るなら、神様は憐みのゆえに受け入れてくださり、助けを与えてくださるのです。
パウロの書簡には、In Christ という言葉がたくさん出てくるのだそうです。
エン・クリストゥス、「キリストにあって(生きましょう)」という言葉です。
これがまさにパウロの開かれた神学であり、教理であると、語られました。
神はまさに、この「キリスト」を通して、私をご覧になってくださるということ。
罪の支配にある弱い私たちの罪、とが、不足を補ってくださり、私の罪のために十字架にかかって死んでくださったイエス様を通して、私をご覧になってくださるということ。
それが勝利の人生であること。このイエス様にこそ「希望」があるということ。
「こういうわけで、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で、一番すぐれているのは愛です。第一コリント13の13 聖書」
Comments