今朝の海。
祈祷会は箴言15章より
この箇所では「心」という言葉が何度も出て来ます。私たちは心を目で見ることができません。しかし表に出てくる言葉や行動によって、その人の心を見ることができます。
「言葉」は心の泉から、湧き出てくるものです。
二つの言葉に目を留めたいと思います。
①親切な言葉
15章1節には「柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。」
とあります。
また箴言の16章24節には「親切なことばは蜂蜜。たましいに甘く、骨を健やかにする。」と書かれています。
親切な言葉とはヘブル語で「トーヴ」(良い、好ましい)という意味であり、英訳すると
励ますといった意味もあります。売り言葉に買い言葉とあるように、乱暴な言葉をかけると乱暴な答えが、親切な言葉には親切な言葉が返ってくるといったようなことを私たちは日常、経験しています。
詩篇141篇3節には
「主よ。私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください。」とあります。
文語訳聖書では、「我が口に門守をおきて、我が唇の戸を守りたまえり」です。
この門守とは門番のことであり、この口を守るのは心であること、その心が聖い主によって支配されていることの大切さを思います。
エペソ4章29節の
「悪い言葉を一切口から出してはいけません。むしろ必要な時に、人の成長に役立つ言葉を語り、聞く人に恵みを与えなさい。」というみことばにあるように、
私たちが悪い言葉に身をおかず、良い言葉に身を置くなら、たとえ、悪い環境にあったとしても、注意深くあらねばと思うように変えられていきます。
イエス様ご自身はどのようにされていたかを見ると、皆から疎まれ蔑まれていた女性に対して、皆が「この女」と呼んでも、主は「婦人よ。」と声をかけられました。
人々がそのような言葉は相応しくないと思う人に対しても、イエス様はそっとその人格に近づき、尊び、語りかけられたのです。
神の御こころに近づいていく時、神の言葉に鎮まり、自分自身を寄せていくときに、私たちは汚い言葉から離れていくことができ、また遣わされたところにおいて世の光・地の塩の役目を果たしていくことができます。
②時宜にかなった言葉
15章23節に「適切な返事をすることは、その人の喜び。時宜にかなった言葉は、なんと
麗しいことか。」とあります。
時宜にかなった言葉は「健全な言葉」ともとれます。第一テモテにある「主イエスキリストの健全な言葉」第二テモテ「キリストイエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全な言葉を手本にしなさい。」
私たちの発する言葉によっても健全さが表れてくるのです。神との関係が健全か否かによって、使われてくる言葉も変わってきます。神に感謝する中で生まれてくる言葉は健全な言葉です。「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんご。知恵をもって叱責するものは聞く者の耳にとって金の耳輪、黄金の飾り。」(箴言25章11−12節)
言葉は凶器にもなり、人を生かしもします。健全な言葉が最もふさわしい場面で語られていくということは主の前に美しいものです。主との関係の中で、祈りの中で、主に語れと言われた時に、与えられた言葉を適切に語る、そのような者でありたいと願わされます。
そしてもうひとつ大切なこと。
エペソ4章15節には
「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。」というみことばがあります。
パウロは愛をもって真理を語れと言いました。
イエスさまはある青年が「どうしたら永遠の命を手に入れられますか?」と近づいてきた時に、「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」と答えられました。「そのようなことは小さい頃から守っております。他に何がまだ欠けているのでしょうか。」と青年がきくとイエスさまは彼を見つめいつくしんで「あなたの財産を売り払って貧しいものに与えなさい。そうすれば天に宝を積むことになります。そのうえでわたしに従ってきなさい。」とそう言われました。
青年はこの言葉を聞いて悲しみながら立ち去ったとあります。イエス様はこの時、この青年に必要な真理を語られました。パウロが愛をもって真理を語れといっていますが、イエス様は、この青年のためにもご自身のいのちを捨て、十字架にかかり、神様にとりなしてくださる、そういう命がけの愛をもって青年に真理を語ったのです。
私たちは、安易に祈ります。「どうか真理を示し、そこに歩ませてください。」と。
しかし、それが語られた時にそこに従えなかったら、それは本当に残念なことです。
真理が語られた時、従順してゆく信仰の尊さを思います。
同時に祈りの中で、真理を語れと言われた時に愛をもって語る信仰を成長させられたいと願います。
「穏やかな舌はいのちの木。舌のねじれは霊の破れ。」箴言15章4節 聖書
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