コスモスも、見上げた空も美しい。神の御業を褒め称えます。
今日の祈祷会は箴言10章からでした。10章から22章までは、これまでの章と違い、一節一節が格言となっています。
全部で374の格言が語られているとのことですが、今日は10章を朗読し、その中から、1節と5節より「子育て」について、次世代への言葉にスポットを当てて語られました。
メッセージのなかで、「神と人とが共に住む永遠の国を建てたい。というのが神様のビジョンであり、神様の夢」という言葉があり、とても心に残りました。
神様の愛の夢。温かいです。
私たちは、それゆえに、神様が私たちに預けてくださった子どもたちに、神様の愛を伝えてゆく。
箴言1章7節には、「主を恐れることは知恵の初めである」とあります。
1節に出てくる「知恵のある子」とは神を恐れる道を歩む子どもです。また「愚かな子」とはその道を愚かであると軽んじる子のあゆみであります。
1節に出てくる母の悲しみとは、ヘブル語で、「憂い」また「重荷」と訳されるそうです。
サムエル記の初めに出てくる祭司エリには2人の息子がいました。ホフニとピネハスですが、彼らは神を怒らせ、神の栄光がイスラエルから去る事を招いてしまいました。聖書は彼らの悪態について鋭く記しています。
それとは逆に、母ハンナの涙の祈りに応えて主が与えられたサムエルは乳離れすると、この祭司エリの元に連れてこられ、エリによって育てられました。サムエルは、神の声を聞きやがてイスラエルの中で預言者として立てられ、立派に成長して行きました。
エリの実の子たちは、「悲しみの子」に、自分の子ではないサムエルは「神の子」に育ったわけですが、果たしてエリの教育に違いがあったのでしょうか?エリは息子たちを愛さず、神のことも話さなかったのでしょうか。いいえ。決してそうではなかったでしょう。それではエリの伝え方に問題があったのでしょうか。もしもエリの教育がダメだったら、実の子たちと同様サムエルもダメになったわけです。
またノアもしかり。ノアには、三人の息子がおりました。しかし、信仰者として残ったのは長男のセムのみ。次男のハムはのちのニムロデ。三男のヤペテはやがてユダヤ人を二分してゆくアンティポス4世の祖先となります。
ノアが神様から箱舟を作るように言われ、百年近くかけて作る際もきっと息子たちは皆、父を手伝ったことでしょう。さらには洪水の際はともに舟に乗り、そして、洪水後は舟から出てまず最初に、父とともに神を礼拝したのです。ノアの教育にも違いがあったのでしょうか。
ここに教育の難しさがあります。信仰継承の難しさがあります。親が立派だから子も立派になるかといえばそうではありません。親が信仰者であっても、子が信仰者となるかというとそうでもありません。神様を「家の神」ではなく、子ども一人一人が「私とあなた」という関係を主と結ぶことができるように、祈りつつ、導き、支えてゆく。また、神様が私にしてくださったことを証して主の元に導くことの大切さをしみじみと考えさせられました。
また5節を通して、「時」について深い学びが与えられました。
聖書協会の新しい訳によると、ここに出てくる「賢い子」とは「悟りのある子」となっており、それは「時」を知っている子とそうでない者の違いであるということです。
伝道者の書3章において、ソロモンは、有名な「時」についての詩を書いていますが、
「すべてのことには定まった時期があり、天の下の全ての営みに時がある」とあります。
ソロモンは「時」を生かす子は成功するが、そうでない者は恥知らずだと記しています。
畑にも蒔き時というものがあります。牧牧師のところに先輩の牧師が「カボチャのタネを9月に蒔いたら、芽が出てきたよ!」と喜びの連絡がきたそうです。しかし「残念ですが、芽が出ても、それは実りませんよ」と返事をしたそうです。かぼちゃの種は6月に撒かれ9月に収穫するそうで、いい時期に、いい種をまくということが、菜園には大切であり、時を理解して育てることが大きな収穫につながるということです。人生においてもまさにそう。
時の感覚をしっかりと身につけ、計画、課題を見て成し遂げてゆく。
イエス様ご自身もいつも時に関する感覚が鋭いお方であったと話されました。
人々がイエス様を祭り上げ、「いつですか?ローマから解放してくれるのは?」「いつローマと戦うのですか?」「いつ?」と人々が迫ってきても、イエス様ご自身は「わたしの時はまだきていません。」と言われました。ガリラヤから地方を周り、そのイエス様が少しずつ変わられて、「いよいよ、その時が来たのですか?」とともにいた弟子たちがイエス様に聞いてくるほど、イエス様の気迫が感じられるようになり、そして、最後の晩餐、ゲッセマネの園での祈り。「父よ。時が来ました。」と祈られています。
イエス様は祈りの中で、「いつでしょうか」「神様のお心にかなって進んでいくべきでしょうか?」と祈られていたのです。
使徒パウロが「機会を十分に活かして用いなさい」といっていますが、私たち自身の力や能力でなく、今がその時だと言われた時に、神様に応答してゆく思慮深い子として、神の御心ゆえに成功をもたらしていく子として、私たち自身が箴言の10章1節の「父を喜ばせる子」でありたいと願わされます。
父の喜びの子となること。私たちは神の子として、父に「主の時」を求める中で、その「時」を知り、御心のもとに事を行ってゆくことに心を砕いてゆくべきことを改めて示されました。主のお言葉を心から感謝します。。
祈祷会が終わって、小さいちゃんもモップを持ってワッセワッセとお掃除のお手伝い😍
お家で「わたし、きょうかい、ダーイスキ❤️」とお母さんに、お話してくれたそうです。
イエス様も、教会のみんなも小さいちゃんが大好きですよ!
今週も主の守りのうちを歩まさせていただける幸い。
「知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみとなる。箴言10章1節
夏のうちに集める者は賢い子。刈り入れ時に眠るものは恥知らずな子。箴言10章5節」聖書
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