空を見上げると雲ひとつない美しい青空。神様の絵の具は素敵だなあと、心癒されて行きます。寒暖の差で体調を崩しやすい日々、年末の忙しさの中にも、自然に目を向けるときに神様のお心に触れるような気がして少し心が安らぎます。
さて礼拝のメッセージは白根福音キリスト教会より山口康友牧師が講壇交換で「いのちを与えるために」と題してマルコ10より御言葉を取り次いでくださいました。
マルコ10章35節からこのイエス様のお言葉に至るまでの流れをお語り下さいました。
イエス様と一行はついにエルサレムに上る、その途上にありました。
弟子たちの心は、ざわついていました。
「いよいよそこで先生がメシヤとして宣言されるのではないか?」
イスラエルで待望のメシヤです。33〜34節でイエス様は受難予告もなさいました。
そしての35節です。ヤコブとヨハネがイエス様のところにやってきたのです。
「先生。私たちが願うことを叶えていただきたいのです」
原文では、この私たちが、という言葉の前に「私たちのために」という言葉が入るのだと語られました。これはくどいので整理されているのだと。
そして、この弟子たちの質問に対してイエス様の回答。
「何をして欲しいのですか」このギリシャ語の文章にも「あなたがたのために」という言葉が隠されているのだと語られました。
「あなたは何のために願っているのか?自分のため?家族のため?子どものため?」
それを自問するべきであること。「イエス様のため」に願う者と変えられてゆくべきこと。
御言葉を聞きながら、ピリピ書2章21節を思いました。
「みな自分自身のことを求めていて、イエスキリストのことを求めてはいません。」
このイエス様の言葉に対してヨハネとヤコブは言いました。
「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人があなたの左に座るようにしてください。」(37節)と。
彼らはこの世の名声や権力・名誉をイエス様がお受けになると誤解し、そのイエス様の後に続く右大臣、左大臣にさせていただきたい、と人間的な欲望でいっぱいでした。その彼らの心をイエス様はちゃんと見抜かれていたのです。
しかし、イエス様がここで「何言ってるんだろう」と呆れたり、「サタンよ退け」と叱ったりされずに、彼らと正面から向き合って話をしようとされている姿があることが語られました。おかしなことを言っても、正面から向き合ってくださる、イエス様はそんな優しいお方なのだ、と。
イエス様は彼らに言われました。
「あなたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けれますか?」
すると彼らは「できます」と即答です。
イエス様は彼らに諭されて言われましたが、イエス様の言われた「杯」とは、祝杯でなく、「神の怒りの杯」であり、「バプテスマ」とは、「死」を意味することであったのです。
つまりイエス様がこれから通られる十字架の苦しみを共にする覚悟がありますか、と問われたのでした。
彼らは全く理解することができませんでした。それができたのは、イエス様がよみがえられ、昇天され、聖霊が彼らの上に降られてからです。
40節で、このような一連の話を知って、他の弟子たちは、抜け駆けされたと烈火のごとく怒るのです。
そんな情けない弟子たちに対して42節でイエス様が言われたのです。
この世では偉い人たちは、人々の上に権力をふるい、彼らに横柄に振る舞う。それがあなたがたの右大臣・左大臣のイメージですね、と。
しかし、イエスさまと共に生きる者はそうであってはならない。そのような異邦人の指導者のようであってはならない、と。
「仕える」とは家の中の奴隷たちが、主人たちの食卓で給仕する、そのような姿であり、自らを奴隷とし、身を低くし、謙遜になることであり、それは主の本当の弟子となることだと語られました。
イエス様が本当に求めておられるのは、主を中心として生きる生活であり皆に仕え皆のしもべとなるということ(45節)なのです。
その模範となられたのはキリストご自身でした。
神であるかたが地上に下り、地上の王たちのように皆に仕えられることを求めたのでなく、それをすべて捨ててくださった。ご自分の命を贖いの代価として与えてくださった。
「贖いの代価」とは、「身代金」と訳される言葉だそうです。
「罪」という誘拐犯の「奴隷」として、生きるしかなかった私たち。
「罪」に捕えられた私たちを、自由にするためにイエス様が「身代金」をご自身で支払ってくださったのです。
今私たちは、このような主イエスキリストを明確な基準として示していただきました。
何を願うか。どのように主イエスキリストにお従いして歩むか。
イエス様がご自分の命を与えるために来られた。何かをもらうためでなく、またご自分のために功績を打ち建てるためでなく、ただ哀れな私たちを救うために来てくださった。
このキリストの愛に感謝し、キリストに倣う者とされたいと願わされたことでした。
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。マルコ10章45節 聖書」
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