イースター、主の復活を心より喜び感謝します。
みことばはルカ書より「女性たちの証言」と題して。
❶人に戸惑いを起こさせるイエスのよみがえり
イエス様が金曜日に十字架で死なれて、アリマタヤのヨセフの墓に葬られ、土曜日は安息日であるため、当時の通常の埋葬準備である香油を遺体に塗るなどの処置は成されないまま慌ただしく日曜日の朝を迎えました。
イエス様のことが心配でならなかった女性たちは、十字架刑も見届け(ルカ23章49節)、さらにアリマタヤのヨセフの埋葬も見届け(55節)、そして家に戻ると香料と香油を用意した(56節)とあります。安息日に従って休み、日曜日の朝、しかも明け方早くに(24章1節)彼女たちは、すぐに墓に向かうのです。
「イエス様!イエス様!」と香油の壺を抱えて走る彼女たちの姿が浮かびます。イエス様の墓の前にある大きな石を転がしてくれる人がいるだろうか・・・石が固く閉ざされていたか、少しの隙間があったかそれはわかりませんが、彼女たちが向かった時に、驚いたことに大きな石は転がされており、中に入って見るとそこにはイエス様の遺体がありませんでした。
4節には彼女らが思いがけない現実に途方に暮れていると、「見よ。まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。」と書かれています。
御使たち。彼らがなぜ、墓の石を転がしたのか。それは、「イエス様の遺体がないということを見せるため。」であったのではと語られました。
大きな墓石がどけられて「ここにはおられません。」(24章6節)という彼らの言葉に、彼女たちはどんなにか驚いたことでしょうか。大急ぎで弟子たちのところへ戻るのです。
❷思い出すことの大切さ
驚き恐れる彼女たちに、御使いたちは続けていいました。
「ガリラヤにおられた頃、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架に付けられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」(6〜7節)
その言葉に、「彼女たちはイエスの言葉を思い出した。」(8節)と書かれています。
彼女たちは、あまりに凄まじい数日間のこと、イエス様の通られた道、十字架までの一連のお苦しみ、「イエスさまの死」に圧倒され心が押しつぶされていました。ところが、ここで御使いたちの解説を聞き、「あ!そういえば!」と思い出したのです。
ここで、「思い出す」という言葉は、忘れていたことを思い出すという単純なことではなく、経験した出来事の本当の意味がわかったという時に使われるのだ。また、
女性たちを含めた弟子たちにとって、イエス様があらかじめ語られていた「よみがえる」という言葉よりも、「死ぬ」という言葉の印象が強かったのではないか、と語られました。
彼らの心は十字架で終わってしまっていたのでした。
弟子たちは、イエス様と共にいた間も、この方は王となられる方だ、その際には、私こそ右大臣に!左大臣に!と誰が一番偉いか喧嘩をしていました。それもイエス様が生きておられてこその議論でした。ところが、そのイエス様が死なれてしまった。あー。死んだらもう終わりだ。と彼らは失望のどん底にいたのでした。
ルカ9章22節にはガリラヤにおいて、イエス様が語られた言葉が書かれています。
「人の子は、多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえられなければならない、と語られた。」とあります。
まさにイエス様のこのお言葉がここで実現したのです。
彼女たちは、この時、それを思い出したのでした。主のお言葉を思い出した時、どんなに喜びで満たされたことでしょうか!ハレルヤ!と主を褒め、彼女たちは帰っていったのです。
❸告知のルートが意味すること
10〜11節には、女性たちが弟子たちのところに戻って、このこと全てを報告した様子が書かれています。弟子たちは、イエス様とずっと一緒にいたというのに、女性たちの言葉を信じませんでした。「この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。」とあります
ここに、著者ルカの皮肉も込められているのだと語られました。ルカはここで「弟子たち」と記さず、「使徒たち」と表現しています。ずっとイエス様のおそば近くで、信仰を持って従っていたはずの「使徒たち」。彼らは信じなかった。
12節にはペテロは立ち上がって墓まで走り、この出来事を知って、驚きながら自分のところに帰っていったとありますから、彼らの信仰がそこからも伝わってくるのです。
牧師が心励まされるのはこの次のストーリーですと語られたのは「エマオの途上」。
13節で、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから、エマオというところに向かっていった話です。
彼らは、なぜエマオに向かったのか。
彼らの心もまた、イエス様の十字架の死によってすっかり落胆し、失望し、よみがえりのことなど思い出すこともなく、期待することもなく、「エルサレムを離れないでいなさい。」と言われたイエス様の言葉さえ忘れていたのか、その足は、御心や主のお言葉とは逆の方に
自分達の考えで、エルサレムを離れていく方向に向かっていきました。
トボトボと歩いていたでしょうか。「あー。なんでだろうね。イエス様こそ救い主、王になられる方であると信じてここまでついてきたのに。なんてことになったんだ!」と話し合ったり論じ合ったりしていたのでしょうか。(14節)
そんな彼らの元に、イエスさまご自身がそっと近づいてこられて彼らと共に歩き始められた、とあります。(15節)
私も大好きな箇所です。イエス様は彼らに質問し、そして「ああ不信仰な人たち」と聖書全体から彼らに特別集中講義をされるのです。(27節)
彼らの目は開かれ(31節)そして、心は燃やされ、
彼らはまさに「Back to Jerusalem!」エルサレムに戻った。と書かれています。
信仰のUターンです!
なんだか嬉しくなります。
私たちの心もこの弟子たちのように燃えること。主がそれを望まれていることを思いました。
イースター。主がよみがえり、救いの成就を完成されたことを心から感謝し、復活の力に満たされていることを思いだし、私たちもまた永遠の命が与えられ、よみがえる恵みにあることを信仰をもって期待し感謝したいと願ったことでした。
午後は、子どもたちのためのイースター集会でした。まだコロナ禍にあって気を緩めることができません。映画会と牧先生のお話を聞いたり楽しい賑やかなひとときでした♡
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。ヨハネ11章25節 」聖書
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