いよいよ春を感じます。梅の花の香りも優しく、みかんもたわわに🍊実っています。
今日は転入会式もあり、お証を伺いながら一人の方の人生に神様が大きなご計画と愛を持って豊かに臨まれる祝福を想いました。心から歓迎しつつ歩みがさらに祝されますようにお祈りいたします。
みことばは「不信仰な曲がった時代」と題してルカ書より。
🟠多くの人々がイエスさまのことを、預言者か生き返ったヨハネかという中で、弟子たちは「あなたは神のキリストです」とイエスさまにはっきりと応答しました。イエスさまはその告白を喜ばれつつも、これからご自分の身に起こるべきことを語っていかれました。それは弟子たちの期待とは真逆の十字架にかかる道であり、それを知った彼らはすっかり落胆してしまいました。そんな弟子たちの様子をご覧になりながら、イエスさまは、まるで彼らを励ますように祈り場・ヘルモン山に連れて行きご自身の栄光のお姿を表してくださったのでした。
さあそのヘルモン山の素晴らしいひとときの後。山から降りてきたイエスさまを待ち受けていたのは群衆でした。その群衆の中の一人の人がイエスさまに向かって叫んで言いました。
(38節)「先生、お願いします。息子を見てやってください。私の一人息子です。霊がこの子に取りつくと、突然叫びます。そして、ひきつけを起こさせて泡を吹かせ、うちのめしてなかなか離れようとしません。あなたのお弟子たちに霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、出来ませんでした。」悲痛な叫びです。悲惨な状況です。
この時イエスさまは「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れてきなさい。」(41節)と言われました。
この「ああ」という言葉はイエスさまの大きな落胆を示し、
「時代」という言葉は元々の言葉ではgeneration「世代」〜今イエスさまご自身の前にいる(当時の)人々の生きる時代を意味しています。
イエスさまのこのお言葉は、申命記32章5節の「自分の汚れで主との交わりを損なう、主の子らではない、よこしまで曲がった世代」という言葉の一句「よこしま」が「不信仰」と入れ替わって使われていると語られました。
申命記の書物の背景を見ますと、出エジプトを経験した人々が主の豊かな憐れみと導きによってエジプトから救われたのに、その道中「ああ、エジプトにいればよかった!エジプトの方がましだったのに!」と食べ物や生活の不満を叫び始め神様に対して反抗した姿が記されています。彼らは神と神がお立てになったリーダー・モーセに対して文句を言い続け、さらには真の神でなく偽りの偶像に走って行きました。神様はそんな民に対して「よこしま」と言われたのでした。
イエスさまも、この息子に対して何もできなかった弟子たちに向かって「不信仰」と言われたのです。
なぜ彼らは悪霊を追い出せなかったのか。
彼らは、大分前に(9章1〜6節)イエスさまから悪霊を制して病気を癒す力や権威を与えられ村々に派遣されて福音を宣べ伝えながら、癒しを行っていく体験を既にしたのです。
その彼らがどうしてこの息子の悪霊を追い出すことができなかったのか。
それは、彼らがイエスさまの御名を使うときに、神さまを頼り、その名を信じて祈ったからでなく、すでに体験した自分の力・実力に頼ったからなのだと語られました。
イエスさまは「あなたが神の御心に叶う願いをするなら天の父はそれを叶えてくださる」と言われました。私たちが信仰を持って祈るならば必ず応えられるのです。
今日は日曜学校でも同じところから語られたのですが、↑釘の絵が出てきました。
「さあ、みんなだったら、この中でどのクギを打ちたいかな?」そんな質問に「これ!」「これ!」と笑いながら口々に答える子どもたち。曲がりに曲がった釘は打ちにくく、ちょっと斜めでも当然選びません。私たちはまっすぐな釘を選ぶのです。
この曲がった釘こそは「私たちの神様への態度」だと語られました。
弟子たちはイエスさまに頼らねばならなかった。神様に完全に信頼することが求められていた。それなのに「私にはできる!」と必要のない「自負心」に満ちていたのでした。曲がった釘そのものです・・・。
イエスさまはそんな弟子たちの姿を見て「ああ、いつまで我慢しなけらばならないのか」と言われたのです。
イエスさまに愛され、共に歩む恵みに預かりながら、イエス様を悲しませている状態であることを示していただき悔い改めることをせねばならないことに気づかせられました。
人が人と「一緒にいる」ということの前提はなんだろうか。そう問われました。
アモス書の3章3節にこんなみことばがあります。
「約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか。(ふたりの者は仲が良くないのに一緒に歩くだろうか)」
私たちが「一緒に歩く」には「同じ思い」「同じ方向」が必要です。
イエスさまと歩む道も然りで、イエスさまが「こちらへ」進むと言われているのに
「いやいやわたしは違うと思いますし、このようにやってきたし、あちらで決めています」と違う道へ進もうとするなら、歩みがストップしてしまうことになります。
イエスさまが十字架に向かって歩き出された時に、ペテロは「いえいえ!イエスさまそれはなりません!十字架などなりません!」とイエスさまを制止しました。
そのペテロにイエスさまは「下がれ!サタン!あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」と言われたのです。(マタイ16章23節)
私たちのあゆみ、そして教会のあゆみもまた同じです。
イエスさまがこちらへ言われているときに、それを「自分の思い」で否定し、抗い、争うならそこにおられるイエス様は本当に苦しみを覚え、疲れられるのです。「ああいつまで我慢しなければならないのか」と。
イザヤ46章4節が開かれました。
「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。
わたしは運ぶ。背負って救い出す。」
この「背負う」という言葉は元々の言葉で「我慢する」と同じ言葉が使われているのだと語られました。
私たちを背負ってくださるイエスさま。「重いなあ」と思われているかもしれない。
しかし、さらにそのイエス様の背中で、自分の主張やら自分がやりたいことをまくしたて、イエスさまを困らせるならばそれは本当に悲しい姿です。
イエスさまは、一旦背負った私たちを白髪になるまでも最後までずっと背負ってくださるといってくださるお方なのですから・・・
イエスさまと歩調を合わせようとせず、イエスさまを苦しめている私たち。
イエスさまは、自我でいっぱいでイエスさまを苦しませる弟子たちをお見捨てになることなく、背負いながら共に過ごし、教え、導かれました。そのように、私たちをも背負い歩いてくださるお方です。
「私はイエス様を苦しめていないだろうか。」背負ってくださるイエスさまの少しでも重荷を軽くしたい、そのように願う私たちに何ができるだろうか。それは、イエスさまの向く方向に私たちが向くようになること・・・・。
イエス様に導いていただく中で、イエスさまの考え方が自分でもできるようになること。
そのように成長するときに、イエスさまの負われる重荷は少し軽くなるのでは、と語られました。
そのために、私たちは、イエスさまの言われる「十字架を負ってイエスさまに従う」という道を避けずに通ることが求められているのです。
ヘブル10章36節にはこのようなみことばがあります。
「あなたがたが神の御心を行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」
ペテロは、十字架に従う道を避けようとしました。しかし、この道に従う中で、イエスさまはマタイ11章28節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとにきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と声をかけてくださり助け導いてくださる。
その主に信頼しつつ、忍耐を持って、神様に希望をおき従順する歩みと導かれたいです。
みことばを思いながら背負ってくださるイエスさまを思っていたらこの「足跡」という詩を思い出したので載せます。

「わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。イザヤ46章4節後半 聖書」
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