八重咲きの百合が綺麗です♡
メッセージは「主が報いをされる」と題して第一サムエル記24章より。
前章14節「サウルは毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡されなかった。」のみことばの通り、神様の完全な守りの中で幾つものピンチを切り抜けてきたダビデです。
❶心を痛めたダビデ
ダビデはエンゲディの荒野にいました。地図を見ながら、それは死海の西側に位置し、多くの洞穴がある場所であることを確認しながらみことばを聞きました。
2節で、ダビデの所在を告げた者の言葉により、サウルはイスラエル全体から選り抜きの精鋭3000人を選んで彼らと共に、ダビデを捜しに出てきたことがわかります。
そこで「道の傍にある羊の群れの囲い場に来るとそこに洞穴があった。サウルは用を足すために中に入った。その時、ダビデとその部下は、その洞穴の奥の方に座っていた。」(3節)と書かれています。
多くの洞穴があるのに、たまたまサウルが入ったところに、ダビデとその部下がいたのです。「神様を愛し、神様のご計画の中にある者に偶然は一つもない」のですから、これは神様の導きです。
部下は言います。「今日こそ、主があなたに、サウルの命を与えられる日です。」と。ところがダビデは、立ち上がって後ろから、サウルの命でなく上着の裾をこっそり切り取るのです。
5節にこのようにあります。「後になって、ダビデはサウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。」と。そして続けてダビデの告白です。「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。」
こんな滅茶苦茶なサウル王のことで、理性的な行動に収めたことにさえ、ダビデはどうして心痛めたのでしょうか。
サウルという人間は、彼に槍を投げつけ、殺そうとしてきたような相手です。もはや正気などなく、嫉妬に狂い、逃げても逃げてもしつこく追いかけてくるような脅威であり、ほとほと疲れてしまうような存在です。
いっそ、これがチャンスとばかりに部下たちの勧めるまま行動しても、間違っていないかのようにも思えます。しかし、ダビデの「この人は、主に油注がれた人」という言葉は「神がこの人を立てたのだ。」という神様へのダビデの信仰なのだと語られました。
「神が立てられた人に対してすることは、神に対してすることなのだ」と、ダビデは、自分を理不尽な状況に貶める相手にさえも、その先におられる真実なる神を見ていたのです。
ダビデがどんな試練の中にあっても、自分に不利な状況に貶められても、それさえも全て包み込んでよくご覧になり、よく理解しておられる主の確実完全なその真実に、全幅の信頼を置いていたこと。状況や人に揺れ動かされない、彼の「揺るがぬ信仰」に感動します。教えられます。
真剣に祈り求めつつ歩む道において試練と思える状況に遭遇した時に、自分の力ではどうしようもない壁にぶつかる時に、その困難な中にあっても、私を誰よりもよく分かってくださっている神様が必ずこの状況に脱出の道を備えてくださると信じること。またこの試練は目の前にあるその状況や人から来たのではなく、神様の深い御意志によってからであり、主が愛する私のために特別に立ててくださったカリキュラムの中の大切な一つであると信じること。
ヤコブ1章2節に「さまざまな試練にあう時はいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っている通り、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすればあなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」とあります。
「試練を受けることは苦しみです。しかし、それを通らされることにより、キリストに似た者として、成長が与えられる。そして喜びに満たされる。試練は生きる限り与えられ続けるけれど、主に在る者は、それによって大きな成長を与えられるのだ・・・。」と、今日は「いのちの道」という午後の聖書の学び会において兄弟姉妹と学び、改めて教えられました。学びの中で、牧師から皆にこんな質問もありました。「あなたは、あなたの両親によって傷つけられたことがありますか?」全員答えは「ある」でした。どんなに愛情を注いだとしても、地上の両親は人間だから間違う。しかし、天の父は、正しいお方で、意味のある訓練しかなさらない。ああ、本当にそうだなあとしみじみ思いました。
礼拝の中でローマ書12章19節も読まれました。
「愛するものたち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに委ねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』」
これは、「神が正しく平等だから自分に代わって復讐してくださる。」ということにとどまらず、そんな自分が何者なのか、自分自身が、元々は神の怒りの元に置かれていた怒りの子であったのに、神がその怒りを全部イエスキリストに背負わせ贖ってくださった、恵みによって今在るだけの者であることをよくよく覚えていなければならないのだと教えられました。
自分は「神の一方的な憐れみの対象である」ということ。憐れみ深いお方、キリストのように自分自身も憐れみ深く変えられていくべきこと・・・。憐れみ深い神の御心に歩む者へと造り変えられてゆくことを覚えます。
❷ダビデの訴え
サウルを亡き者にしようと思う部下たちを説き伏せ、ダビデはサウルをそのまま去らせますが、サウルが出てゆくと、ダビデも出てゆき後ろからサウルに呼びかけます。
サウルに上着の裾を見せながら「あなたをイスラエルの神が立てられたことを認めます。」と尊敬を表明しながら、自分を「死んだ犬」「一匹の蚤」にもたとえて、王が命をかけて追う価値などない者です、と訴えるのです。
ダビデは神様に自分の持っている怒りを委ねていったのでした。私たちは、自分で自分の状況をなんとかしないといけない!と悩む。しかし、「ああ、主よ。あなたがここにいてくださいますね。」と相手に翻弄されず、神に委ねること。
自分は自分らしく、神を真っ直ぐ愛する者に神は力強く働いてくださる!
その御手に委ね、任せてゆくことが大切なこと・・・。
❸サウルの表面的な謝罪
王位に固執していたサウルは、自分の元から神の霊が去ったことを知り、勇敢で美少年であり民を鼓舞するような理想のリーダー・ダビデが現れて、嫉妬と殺意に燃え、執念深く追い続けました。しかし、このダビデの告白によって心解かれ、声を上げて泣きながら(16〜17節)「お前は正しい。お前がイスラエルの王となるのだ。」と言うまでになるのです。
しかしながら、この後、サウルのこの言葉は何度も覆され、一時的な感情による信仰の虚しさも見せられます。何回悔い改めても、変わらない信仰・・・。感情だけでは信仰は続かないということを知らされるのです。
ガラテヤ6章15節が開かれました。
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」
神様が求めておられるのは、外側のものや事柄でなく、ヘリくだり、砕かれた真の悔い改めであること。
サウルとダビデの対照的な姿を見せられながら、信仰について考えさせられることでした。
さて、午後の聖書の学び会【いのちの道コース】も残すところ後3週となりましたが、この学びは何度受けても大変深く、広く、尊い学び会です。何より楽しいです。
余談で出てきた木村清松牧師(1874年生まれ)のお話も、改めて聞いて感動しました。
この先生はアメリカで、ナイアガラの滝を見学した際、アメリカ人らに「すごいでしょう」と言われて、「この滝は私のお父さんが造ったものです!」と語り、それが発端となってアメリカの多くの教会に招かれてみことばを語った有名な伝道者です。
私たちキリスト者の身分・アイデンティティーについて、私たちは「神の子」であり、「キリストの花嫁」「聖霊の宮」であるということを学びました。また試練についてもみことばからさらに深く考えさせられるひとときでした。感謝します。
朝の日曜学校では、ますます成長しているこどもたちが、暗唱聖句をバッチリ大きな声で覚えてしまい暗唱する姿に感動しました!よくお話も聞いていて理解力が深まっていること、素晴らしいなあと思います❣️工作は可愛いカタツムリを制作しました。
道でもカタツムリを発見しますね!虫たちも一斉に元気に活動!良い季節です。♡
今週も共に歩んでくださる主に期待しつつ、委ねつつ。
「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神のささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りをささげてくださいました。エペソ書5章1〜2節 」聖書
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