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「本質を極める」*第一サムエル記26章

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更新日:2022年6月29日


小さな花も大きい花も同じ光を受け、ひとすじに咲くその美しさに心励まされる今日このごろです。

礼拝のみことばを次週に日曜学校にて教師が子どもたちに語っていますが、毎週サウルに追われるダビデのみことばから共に学んでいます。礼拝の中で大人が思うよりもよく牧先生のお話に耳を傾けたり、先生の使う絵を見ていたり、いろんな人のお祈りをよく聞いているのだな・・・ということが随所随所でわかって感動しました。礼拝は、神様と会い、その交わりにより霊の養いが与えられる魂の安息・癒しの場所であり、キリスト者の信仰の証であります。そして子どもたちの素直で、伸びやかな姿に触れる時に、最上級の教育の場でもあるのだな・・・と感じさせられます。

イスラエルの民がイエス様のみことばを聞くために、大人も子どももこぞって集まり出てきたように、共に神の御座の前に出てゆき、祝福を受ける場としてこれからも祝福されますように。


神は神を愛し、御傍に近づいてくる者を誰一人拒まず、豊かに受け入れ、祝福をお与えくださいます。感謝です。


礼拝のメッセージは第一サムエル記26章より「正しさと真実に応じて報いる神」と題して。


❶神を信じる者と共に働いてくださる。

23章でサウルにダビデの居場所を密告したジフ人たちが、またしても同じことをしました。自分達の住んでいるところから40キロも離れた所にいるサウルに、わざわざ「ダビデがハキラの丘に隠れています!」と告げに行くのです。前回は失敗。でも今度こそは!と言った具合です。


こんなことをわざわざするジフ人たちの動機はなんでしょうか。何が彼らをそのような行動へと突き動かすのでしょうか。

それは「恐れ」から来るのだと語られました。

サウルによってノブの町の祭司全員が抹殺された大惨事が、いつまでも彼らの心に大きな影を落とし、自分達もそうなってしまったら大変だと、恐れで心が支配されていたのです。我らにそのような惨事が降りかからないように!と、早め早めにサウルへの忠誠を誓い、動くのです。


神様は、私たち人間が恐れに支配されやすい弱い存在であることをご存知です。だからこそ、その私たちに神様は「恐れるな。」と何度も何度も語られるのです。「わたしが共にいる。わたしが守る。」から・・・と言われるのです。


このような恐れに支配されるゆえに卑怯な行動をとったジフ人に反して、ダビデの行動は主に信頼しているがゆえの素晴らしい選択でした。


3000人の精鋭を連れてハキラの丘へやってきたサウルが道の傍に陣を敷き、そこで休みます。ダビデは偵察を送ってサウルがきたことを確かめアビシャイを伴ってその陣営に忍んでいきます。

枕元に突き刺してある槍。そして水差し。サウルは眠り込んでいました。

(主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠り込んでいた、と12節にあります。)

部下のアビシャイが、いうのです。「ダビデ様!今がチャンスです!私にサウル王を一気に突き刺すことを許してください!」と。確かに部下の言う通りに、今サウルをやっつければ、もうこれ以上追われることはなくなり、逃亡生活に終止符を打つことができます。


しかしダビデはこの大きな誘惑に勝つのです。

「主が油注がれた方に手をくだしてはならない。」

そして続けて言います。

「主は生きておられる。主は必ず、彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ってきた時に滅びるかだ。」


つまり、ダビデは私が手を下さなくても、神がそれをなさるのだと、恐れの原因を取り去ってくださるのは「主」ご自身なのだとはっきりと信仰を告白したのでした。


どんな大変な時にもそれを乗り越えさせてくださった主。主は確かに生きておられ、私を必ず助けてくださり、全てを成してくださる。私たちの立ちたい信仰はまさにここにあります。

「信じる」と口先で言うのは簡単です。しかし、全人格、全生涯を、神を信じる者としてどんな場面においても神が確かに生き、働いてくださることを信じて行動、選択してゆくことが重要なのです。


❷ダビデの忍耐

13〜20節においてダビデは、遠く離れた山の頂上に立ち、再びサウルに対して自らの潔白を訴えます。

サウルの枕元から取ってきた槍と水差しを見せながら「サウル王の命を取ることもできたけれどもそれをしなかったこと、油注がれた方を護衛していなかった部下アブネルは死に値する」と訴えるのです。


19節において、ダビデが恐れていることが「サウル」本人なのでなく、「自分が信じる神様から離されること」であることがわかります。イエス様もまた、十字架への道で一番恐れていたことは、十字架そのものでなく「父なる神との関係が断たれること」でした。

私たちにとって、一番恐ろしいことは、神との関係が断たれることです。


愛は一方的でなく双方で成り立つものであり、もし神を信じるなら、神が嫌がられることを選び、自ら進んでするということはあり得ません。神を愛していると言うなら、神の喜ばれること、神の望まれることをしたいと思うのです。


ダビデは神の近くにいることを一番の幸せとし、そして、神の望まれることを追い求めた。

しつこいサウルに追われたとしても、それが神の油注がれた人であるならば、自ら動くことなく神の判断・裁きに全てを委ねたのです。

苦しい時も、最後まで、説得と弁明を繰り返し、暴力的な手段に出なかった。


ローマ書13章1節が開かれました。

「人はみな上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威は全て、神によって立てられているからです。」

第一ペテロ2章18節にはこうあります。

「しもべたちよ。敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。」と。


優しい主人だけでなく、意地悪な、横暴な主人にも・・・とは、なんと難しいことを聖書は命じるのか・・・と頭を抱えてしまいますが、しかし、私たちの周りに、神のご配慮があり、たとえ「悪い」ものであったとしても、それは神の導きの中で与えられているものなのだということ。これを、感情でなく、信仰によって受け止める力を与えてくださいと祈っていくことの大切さが語られました。


ダビデは、力には力、でなく、不条理には不条理でなく、降り掛かってくるマイナスを「主への信仰」で乗り越えようとした。どんな中でもその只中におられる主が共に働いてくださるという信頼があったのです。


❸サウルの悔い改め


サウルはダビデの言葉を聞いて「我が子ダビデよ」なんて言うのです。

追いかけて殺そうとしてきたくせによくも「我が子よ」なんて言えるな・・・とぼそっと語られましたが、本当にここを読む私たちも「あー、またか!」と唸ってしまいます。


サウルの言葉は、感情からのものなのです。信仰からでなく・・・。

だから悔い改めても悔い改めても、気付いても、気付いてもまた同じことをくりかえすのです。悲しいです。


ダビデはサウルの言葉が一時的な感情と理解していました。何度も「我が子ダビデよ。」と言うサウルの言葉にのらず、「帰ってきなさい」という言葉にも応答せず、誰かこの槍と水差しをとりにくるようにと言って、こう言ったのです。


「主は一人一人に、その人の正しさと真実に応じて報いてくださいます。主は今日、あなたを私の手に渡されましたが、私は、油注がれた方に、この手を下したくはありませんでした。今日私があなたの命を大切にしたように、主は、私のいのちを大切にして、全ての苦難から私を救い出してくださいます。」


サウルは、この言葉を聞いて、ダビデを祝福し「お前は多くのことをするだろうが、それはきっと成功する。」と言うのです。


「ダビデは自分の道を行き、サウルは自分のところへ帰っていった。」とあります。

これが、ダビデとサウルが会う最後なのだと語られました。

ここが二人にとっての岐路となったのでした。

ダビデは苦しみの時にも賛美し、王への階段を上ってゆくのです。

一方、サウルは悔い改めのチャンスを何度も与えられたのに、悟ることなくやがてペリシテ人の手に渡され滅んでいくのです。


私たちの人生。70年。80年。長くても100年。

何気なく暮らすならあっという間に終わってしまう。しかし、神に信頼して歩むなら、その歩みは天国の前味としての豊かな神との交わりが与えられるということ。

「口先だけの信仰」でなく、心から主に信頼して歩む「本質を極める信仰者」として成長を与えられたいです。

主は、私たちの誠実、真実、正しさに、確実に報いてくださる方なのですから・・・。


「まことに神である主は太陽、また盾。主は恵みと栄光を与え、誠実に歩む者に良いものを拒まれません。万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。」

詩篇84篇11〜12節   聖書



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