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「神に会う備えは出来ていますか」(祈祷会2月23日)*アモス書4章

更新日:2023年2月8日


美しい水曜日。祝日で祈祷会に多くの方が加えられ和やかな祈りとみことばの時。


アモス書4章より。

預言者アモスは、北イスラエルに預言しましたが、彼らは南ユダ王国の田舎農民出の預言者の話なんてと耳を塞ぎ預言を軽視しました。アモスが「神はこうおっしゃっている。」と伝えても聞こうとしなかった。そのような状態で「あなたがたは神に会うことができるのか」とアモスは語ってゆくのです。神様もまたご自身が遣わした預言者の声に聞こうとしない民の態度を嘆かれているのです。


❶1〜3節

まず、神様はサマリアにいる上流階級の夫人たちに向かってその勝手気ままな態度を指摘し彼女たちが捕囚の民として敵の国に連れていかれると言われます。

❷4〜5節

さらに形式的に神に礼拝を捧げている者たちへの裁きが語られていきます。

ベテルとギルガルという町は、北イスラエルにおいて偶像礼拝が行われていた中心地でありました。彼らはそこであらゆる宗教行事を行いました。ですから、たとえ神様に捧げ物を持ってきたとしても、神様はそれを違うと指摘されました。聖書が一貫して語っている通り、神様は捧げ物がたとえどんなに良いものや高額であったとしても、その心が神に向かっているのかどうかを求めておられるのです。


カインとアベルの捧げ物についても、神様はカインの捧げものを退け、アベルの捧げ物を受け入れられました。それは、決して肉と野菜の違いでもなく、高価や安価といったことではない。「捧げる」という行為そのものは同じであるのに、内容ではなく「心」が伴っていない捧げ物を退けられたのです。


神様は私たちの「心」をじっとご覧になり、喜んで捧げるのか、あるいは惜しんで捧げるのかを見つめておられるのです。


礼拝にくるために、時間やお金、労力を捧げます。多くの犠牲が伴います。そういうもの全てを持って、この教会に捧げたいと心を込めて捧げるその心を神様は受け止めて、決して無にされない。

たとえ距離があろうと、神の前に出てゆこうとする時に、その心、スピリットを主は喜んでくださるのだと語られました。

パウロは、第二コリント9章7節で語ります。

「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛して下さいます。」


また、この北イスラエルの民は、3日毎に十分の一を捧げていたとあります。

「こんなにも多くを捧げているんだ」と心は高ぶり、神様はそのような彼らの心も退けられました。


❸6〜11節

神様は北イスラエルの民の心がご自分のところに戻ってくるようにと、5つの災いを下されます。

飢餓・干ばつ・病害虫による不作・疫病と戦争・地震などの自然災害です。

この大地震は、1章で見ましたが、アモスが語る2年前に起こりました。

神様は、惨事を通して、民が気づき、ご自分の元に帰ってくるようにと働かれたのです。しかし民の心は全く変わりませんでした。


❹12〜13節

そのような民に神様は最後通告とも言える言葉を語られます。

「あなたの神に会う備えをせよ。」と。

民が帰ってこないのならば、神ご自身が会いにこられる、そのための備えをしなさいと。


神のお言葉よりも、他のものを選んでいる人が神に対面した時、果たしてどんな顔をして会うことができるのか。。。


ヨブが試練を通された時に、ヨブはまるで自分が全てのことをわかっているようなことをいったことを悔いました。神様が言われたのです。

「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者は誰か。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めた時、あなたはどこにいたのか。分かっているなら告げてみよ。あなたは知っているはずだ。だれがその大きさを定め、測り縄を張ったのかを・・・・。」(ヨブ記38章)

神様のみがご存知のこの大自然の摂理を示しながら神様はヨブに語られてゆくのです。


天地を創造され支配なさっておられる神様は、全てを見抜く方。やがて私たち全ての者が、裁きの座につく時に、そこで犯してきた罪を全て見せられる時に、何一つ抵抗することができないのです。神を信じている、愛していると言いながら、行っていることはどんなことか。主への姿勢はどうなっているのか。


やがてその場で、神と会う時に、「よくやった。善かつ忠なるしもべよ。」と褒めていただけるのか、「怠け者め。」と叱られるのか。

自分の歩みをよく吟味することを、この北イスラエルの民のことを思う時、決して他人事とは思えず、考えさせられるのです。


聖書は、キリストがもう一度来られると再臨について語ります。

もう一度キリストが地上に来られる。その時には、全ての人が申し開きをせねばならない。


神様は、災いを通してでも、私たちに過ちや高慢な思いに気づかせてくださり、悔い改めるチャンスを与えてくださっていると語られました。神様はお優しい祝福の神です。しかし、自分の持つものが全て自分の栄光と思っている傲慢・高慢なものには、災いを通して気づきを与え、主に帰るチャンスを与える方なのだと。

そのような試練の状況を許される理由はご自分のところに帰ってこれるようにされるためなのだと。


私たちの上に起こってくる災いは、神が無力だからなのでなく、万軍の神の御手の許しの下で起きていることであり、それを通して私たちの心が神に向くように導かれるのだということ。

災いというマイナスさえも、益・プラスに変えてくださる神であられるのです。


コロナの蔓延。私たちにもたらされたこの災い。この中にあってどんな神の御心があるのかを考えさせられます。

現代は「神無き時代」と言われます。科学技術が進み、私たち人間は豊かな生活を享受しています。医療も発展し、癌の種類によっては、早期発見であれば恐れることはないとまで言われるような時代です。

ルネサンス以降の、神中心でなく人間中心といった思想を思う時、この世界を創造し導く神を蔑ろにして、偉業をなした人間やその業績を素晴らしいと称え、神を排除しようとする人間中心の世界。神様はこの世界を、どのようにご覧になっておられるのだろうか。

ワクチンも薬も、私たち人間はどこまでいっても受け身でしかおれないという状況・現実に気づき、全てを治めておられる神に、今こそ帰るべきであることを気付かされるのです。


北イスラエルがいくつもの災いによっても神に立ち返ることがなかったことをもう一度深く考え、受け止め、神を悲しませることがないように、神に近づき、神ご自身を求めることができますように。


「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに、主は近くあられます。詩篇145篇18節」           聖書


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