3年ほど前に「プランターとストロベリーの種」セットを頂きました⭐︎それが、今年急にお目見えしまして感動です😍小さい種から奇跡的に?実ったベリー。ちょこんと実る植物の生命力にただただ感動。二宮はそこらじゅうに柑橘類や柿が可愛く実って紅葉と共に明るく深まる秋🍂を迎えています。
御言葉は黙示録3章より。「持っているものをしっかりと保ちなさい」と題してメッセージ。
今日は7ある教会のうち6番目の教会、フィラデルフィアの教会についてです。
この教会は先週のサルディス教会から南東に約45kmへ行ったところに位置し、今日のアラシュヒルという町だそうで写真のような遺跡が見られるところだということです。
このフィラデルフィア教会は2番目のスミルナ教会と共に、イエス様から叱責を受けることのなかった二つの教会のうちの一つの教会だと説明されました。
なぜ、か。学びました。
❶フィラデルフィア教会が評価された点
8節でイエス様は「あなたの行いを知っている」と語られています。
イエス様は、よーく知って、見て、理解しておられるということ。
神様の前に「私」が隠れていることはないのだということ。改めて覚えさせられます。
神は一人一人をよくご覧になっていて「今、私は神様に見られているのだということをいつも私の行動の基準にしたい」ーそのようにも語られました。
フィラデルフィアの「その行い」とは何か。それは「わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかった」とあります。自分の信仰を誰にも隠さなかったということです。
これまでずっと五つの教会を見てくる中で、この当時の教会が常に、ローマ皇帝崇拝の強要といった外部との戦いと、違う教えが入り込みかき回される内部との戦いにさらされていたことを学びました。皇帝礼拝の強要を否むことがいのちの分かれ道となり、妥協する教会が多くでてくる中で、イエスさまの教えを堅く守り続け、戦い続けた初代教会の姿をここに見るのです。使徒たちは、キリスト者ゆえに辱められたことを喜んだと使徒の働きに記されています。
10節において「あなたはわたしの忍耐についての言葉を守った」とイエス様が言われています。これを元々の言葉で見ると「わたしの忍耐についての言葉を守った」と書かれているのだそうです。つまり、これはフィラデルフィア教会の聖徒の忍耐でなく、イエス様の忍耐を指しているということです。ヨハネの福音書にはこのような一節があります。
「この方は元から世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」
これから迎えるクリスマスは、イエス様が赤ちゃんの姿をとってこの世に来てくださった、そのことをお祝いするひとときです。しかし、この神であるイエス様が罪に沈む私たち人間一人一人を救い出すため十字架にかかるために来てくださったのに、この世はそれを受け入れず、感謝することもなく、イエス様を拒み、迫害しました。ここにイエス様の苦難がありました。イエス様は、愛する父なる神様と関係が切られてしまうという酷い苦しみの前にご自分を差し出し、神様の御心に従われました。苦難の道を通ってくださる人生でした。忍耐の連続、忍耐の歩みだったのです。
フィラデルフィアの教会の人々は、このイエス様の苦難、忍耐に忠実に従っていたということなのです。さて、彼らはなぜこのように従順できたのでしょうか。
フィラデルフィアの教会の周辺だけ、主の守りが強かったのでしょうか?
8節には「あなたには少しばかりの力があって」という言葉があります。別の訳では「少ししか力がなかった」と書かれているそうです。教会の規模が小さかったのかもしれません。そんな中で、彼らは「イエスに従う」ということにひたすら力を注いだのだと語られました。「忠実であった」のだということです。
自分の思い、自分の考えに忠実であったのではありません。イエス様に対してイエス様のお心に対して忠実であることに心を尽くしていたのです。
9節では、スミルナ教会への手紙にも出てきたように「サタンの会衆」という言葉が出てきます。フィラデルフィアの教会の聖徒たちが、そのような教会の内部にもいた人々の声に耳を傾けず、イエス様の言葉を守りイエス様の導きを否まず、その信仰に堅くたち続けたことが記されているのです。
8節のイエス様のことばを「守り」「否まなかった」という言葉の自制は過去のある時点でなされたことが、ずっと続いているーそのような言語が使われており、彼らが信じた信仰を今日までずっと守ってきているのだと、イエス様は称賛されているのだと語られました。
私たち自身も「私はイエス様に忠実だろうか」と常に自問自答することが大切なのだと思わされました。
イエス様の教会への手紙には一つの教会を除いて、いつも自己紹介文がまず載せられていますがこの手紙の自己紹介文の中にはイエス様の大きな励ましが含まれているのだと語られました。7節は黙示録1章18節の御言葉に対応しています。「死とよみの鍵」「ダビデの鍵」という言葉があります。
これはイザヤ22章22節の「わたしはまた、彼の肩にダビデの家の鍵を置く。彼が開くと閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない」と記されていますが、死の領域にある人々を自由にする、という意味です。ダビデの家の鍵とは、神の都エルサレムの鍵ことを意味しており、イエスを主と信じ、従う者は、やがて天の御国に迎えられますが、イエス様こそが、その「鍵を持っている」と言われているのです。私たちが死者となるときも、そこから解放したり、閉じ込めることもできる鍵を持っているのはイエス様なのだと言われているのです。
フィラデルフィアの教会の聖徒たちは、ユダヤ人に迫害されシナゴーグに入ろうとすると「お前はキリスト者だ。出ていけ!」と追い出され、閉め出されていた。イエス様はそのような姿をよくご存知で、やがてあなた方は天の御国に入れられるのだ、と語られているのです。
イザヤ60章14節に「あなたを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてあなたのところに来る。あなたを侮った者どもは皆、あなたの足元にひれ伏して、あなたを『主の都、イスラエルの聖なる方のシオン』と呼ぶ」と記されています。イスラエルに敵対していた外国人に対して預言して語られた言葉ですが、ここではそれが、イスラエル人に対して語られており、イエスを否み「私たちこそ選民だ!天の御国に入れるのは私たち神の民だけだ!キリスト者よ出ていけ!」という者たちに対して、イエス様は違うのだ、と彼らこそひれ伏すようになるのだと言われているのです。
10節にはやがてこの地上に、厳しい試練の時がくると、そしてその時に、イエス様はキリスト者たちを守ってくださると語られています。それは「わたしの言葉を守ったので」あなたを守る、と言われているということ。世の終わりを予兆させるような戦争・飢餓・自然災害を私たちは今肌で感じ始めています。この世の終わりに臨む試練。私たちは間違いなく今終末に向かっており、イエス様が「あなたはわたしの言葉を守ったので、わたしはあなたを守る」といわれることが「携挙」を意味することであるか、何らかの守りが与えられるという約束をここで見るのです。
❸持っているものをしっかり保ちましょう
11節でイエス様は「すぐに来る」と伝えておられます。
イエス様の目から見ての「すぐ」であり、必ず「来る」と言われているのです。続いて
「あなたは、自分の冠を誰にも奪われないように、持っているものをしっかり保ちなさい」
と言われました。元々の原文では「持っているものを保ち、そして冠を奪われないように」と書かれているそうです。
私たちに語られている福音・御言葉、信仰を最後までしっかりと持つなら、それにより与えられる冠は奪われることがない、ということです。
マラソンの42,195㎞も、最後まで走らない人には賞はないのです。途中でリタイアすることなく、最後まで、諦めず走る者に、イエス様は、冠を用意してくださっているということ。
12節には「わたしは勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱とする」とあります。「柱とする」とは象徴表現であり、支えるものになる、ということではなく、神との深い交わりの中に入れられてゆくという意味だと語られました。
「もはや決して外に出てゆくことはない」とあります。フィラデルフィアの地方は地震が多発する地域であったそうで、地震が起こるたびに他の場所へと避難することが多い土地だったのだと説明されました。イエス様はそのような教会の聖徒たちに、不安定ではなく、ずっと神の中にとどまることができるのだ、と励ましを与えられたのです。
この言葉のあとに三つの「名」が出てきます。
「わたしの神の御名」ー神のものとなる
「エルサレムの名」ー天の御国の市民
「わたしの新しい名」ー私たちが思い浮かべるレベルを遥かに超えたイエスとの麗しい関係
(2章17節にも 新しい名が出ています)
やがてもたらされる天国が最高に幸せな場所であり、私たちは、イエス様の御言葉をしっかりと握り、忠実な信仰を持って、喜びのうちに両手をあげてゴールする、そのようなビジョンを持ちつつ、今の歩みをなしてゆきたいと示されたことでした。イエス様、感謝します。
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