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【ヨハネの黙示録3・講解説教3】序論3✴︎ヨハネの黙示録1章5〜8節

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秋の風に美しい花々が揺れ心弾みます。バラ🌹やコスモスも綺麗ですね。

パッションフルーツの花も次々と実を結んでいます。草原ではトンボやバッタと共に餌を必死に運ぶ蟻の姿も・・・。豊かな自然に心癒されます。

さて日曜学校では礼拝できく御言葉の導入として同じ箇所から学んでいますが、今日は塩狩峠のお話が出てきました。三浦綾子さんの著書「塩狩峠」です。北海道の鉄道車両の連結部分が外れてしまい峠を下っていこうとする中、乗車している人々の命を助けるために自分の身を線路に投げるという犠牲を払って、人々を救った人の話です。イエス様はまさにそのようにして、ご自分を十字架の上で犠牲にされて私たちを助けてくださったことを改めて思いながら聴きました。

礼拝の御言葉は黙示録より


今週を含めて3週にわたり、黙示録の序論の部分を詳しく学びました。なぜなら序文は本文への導入の部分であり、ここがわからなければ本文がぼやけてしまうからだと語られました。

5節において、三位一体の神、特にイエス様について記されています。そのイエス様を信じた者にどんなことが起こるか。

❶イエス様に愛されている私たち

私たちは日々の生活の中で「イエス様に愛されている」と、その愛が内側に常に湧き上がっているでしょうか。

このヨハネから黙示録の手紙を受け取ろうとしていた人々の状況を考えるとき、彼らは厳しい迫害下にあり凄まじい生活を余儀なくされていました。その彼らを励まし大きな希望を指し示すようにしてヨハネはイエス様の言葉を伝えてゆくのです。

6節には「ご自分の父である神のために、私たちを王国とし祭司としてくださった方」という言葉が出てきます。今は大変な状況に置かれているけれども、イエス様を信じた者に与えられている身分は神の王国に生きる者であり、祭司であるのだとヨハネは伝えるのです。

素晴らしい身分を与えられていることを自覚するべきなのだと。

出エジプト19章6節にはイスラエルの民がエジプトを脱出するときに、神の最終的な裁きから免れるために、子羊の血が使われ門柱にその血が塗られていた家は全て救われたことが記されています。この子羊の血とはイエス様の血であり、イエス様の血が私たちを覆ったが故に救われ、永遠の救いに入れられるのだと語っているのです。


さてその王国では誰が王か。それは神様です。子なる神様であるイエス様が王として立てられ支配者となられたのです。ピリピ3章20節に「私たちの国籍は天にあり」と記されていますが、私たちはまさにキリストにあって「天国人」としての人生をスタートしたのです。

後々このイエス様と共に王国を治めるものとされる。そのようなことが一介の人間に起こるのか。ここに「祭司としてくださった」と書かれていますが、祭司とは、神の御側で仕える人のことを指しています。神の前に罪ある存在であったが故に大胆に近づくことのできなかった私たちが、キリストの血によりその罪が取り除かれ、今や、大胆に神の御そば近くに行くことができ、祭司として神の前に集い、また用いられてゆくというのです。


私たちが礼拝を捧げる中で、一番大切なのはいつか、と問われました。

もちろん説教メッセージを聞くことは大切です。神が一週間始まる前に私たちに牧者を通して与えてくださる御言葉に聞き、賛美や祈りを通して「アーメン(その通りです)」と応える。しかし最も大切なのは、その私たちに神が祝福してくださる瞬間、まさに最後の「祝祷」の時であるのだと語られました。

ある教会では、「祝祷」の時には、母子室や受付にいる人もすべての人が会堂に戻り、しっかりと「主の祝福」を受けるようにと指導しているのだとも語られました。

神が最も近くにまみえてくださるひととき。御座の前で祝祷を受けることは、天国の前味でもあるのです。

祭司のもう一つの役割は、神と人との間に立つ存在であるということです。

今祈祷会では民数記を1章からじっくり学んでいますが、その中で祭司という職について教えられています。この祭司職を今や私たちが委ねられているということ。神と人との間に立つとは、職場や学校、地域や家庭において遣わされそこで主を証するために置かれているということなのです。果たして私は神のツールとなっているのか。例え一期一会と言われるようなときであっても私と出会うことによって、神はその人と出会うために用いてくださる。人々を神は招いておられるということを知るのです。

第一ペテロ2章9節にはこのように記されています。

「あなた方は選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それはあなた方を闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなた方が告げ知らせるためです。」

なぜ私が救われたか。それは私を通して神の栄光を証するためなのだ、と。恥は我がもの。栄光は主のものと。私をそのようにしてくださったのは、私を通して事を行ってくださるためなのだ、と。


ヨハネは今自分がどんなところに置かれたのか、幻を見、人に伝える使命を与えられたことを感謝しつつ、私を召してくださったキリスト、私を通して私を愛してくださるこのキリストとキリストの愛・言葉を伝えたいとペンを取ったのです。私たちが愛しているキリスト・イエス様はこんなに素晴らしいと賛美しつつ手紙を書き進めてゆくのです。


❷終わりの日に目を向けよう

7節の御言葉をみますと、この言葉の背景には旧約聖書の言葉があることがわかります。ダニエル書7章です。

ここに4頭の獣が出てきます。次々と起こってくる国と支配者について書かれています。

天下取りの戦いが繰り広げられてゆく姿を預言しているのです。次々と起こってくる獣は、もっと悪く、凶暴に変化してゆきます。そして第四の獣は誇り高ぶり、恐ろしい力でこの世を我が物にしようとする、というのです。

ダニエル書7章11節には、新しい幻が書かれており、獣が燃えて火に投げ込まれる様子が記されています。13節には「人の子のようなお方」が「天の雲とともに来られ」とあります。永遠の国が始まるということ。ヨハネはこのダニエルの預言の成就がキリストによってもたらされることを語っているのです。

ヨハネの生きた時代は次々と国が出てきては栄え、廃れ、ローマがこの時は支配していましたが、やがてそれも滅び、そしてそのずっと先には御国が建設され、神の栄光と共に包まれるようにしてイエス様の支配が始まるのだと語るのです。

様々な困難な中にあったとしても決してそれで終わりではない。その先に必ず来られると言われたイエス様が再臨される。

神様は必ずそれをなさるのだと、ヨハネの黙示力1章7節は再び預言するのです。この7節の後半にはゼカリヤ書12章10節の御言葉が引用されています。

マタイ24章30節ではイエス様もそのことを言われています。つまり、神様の御国がスタートする!と再臨を喜ぶ人共に、同時にその時悲しむ人たちがいるということです。

今まで持っていた勢力が逆転してしまう。イエスさまが来られるのはキリストを信じる者にとって喜び踊る時であるのと同時に、信じない人々には恐ろしい裁きの始まりだということなのです。


❸世の終わりは確実にきます。


黙示録1章8節で神様が「わたしはアルファであり、オメガである」と言われています。ギリシャ語の「はじめであり、終わりである」という意味です。神こそが初めであり、終わりであり、神こそが歴史の終わりをご存知の方、時を支配しておられる方なのです。


4節に「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」今も生きて働き命を導いておられる方。万物の支配者、力を持っておられる全能者。

ヨハネは「さあ。あなた方はこの全能者が語られることを聞くのです!注目しなさい!」と言ってこの序論を閉じ本論を語ってゆくのです。


黙示録を通して、終わりの日に何が起こるのかを知るだけでなく、1世紀を生きたクリスチャンたちのように、今を生かされる私たちクリスチャンも苦しみ、悩み、矛盾に出会う。そのような私たちに対しても語られているのです。


神の天の御座から解き明かされていることを、私たちはやがて自分の目で見、体験するのです。これは決しておとぎ話や想像話でなく、本当に体験することなのです。

期待して学んでいきたいと思います。


「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。その時、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光と共にくるのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きと共に御使いたちを遣わします。すると御使たちは天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。マタイ24章30−31節 聖書」

 
 
 

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