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【ヨハネの黙示録】講解説教6「3番目の教会ペルガモンにある教会へ」✴︎ヨハネの黙示録2章12〜17節

更新日:8月26日



秋空の美しい一日です。紅葉とともに、秋の花々の可憐なこと。あちこちに可愛らしく咲く花にため息が溢れます。さらにその花の間を飛ぶ可愛らしい蝶々を発見。花びらみたいな蝶🦋でした。美しい秋を造られる神様の御名を賛美します。

日曜学校では楽しいゲーム、ダンス賛美と体を動かして、牧先生のお話に楽しく耳を傾けました。「偽物と本物がある時に、本物を見分けるには?」皆で大笑いしつつも、しみじみと聞き入り、礼拝でまた詳しくお話を聞きました。


礼拝のメッセージは、黙示録より「勝利を得る者」と題して。


よみがえられたイエス様が、ヨハネに書き送れと託された七つの教会への手紙。そのうちのエペソ教会・スミルナ教会に続く、三つ目の教会が今日のペルガモン教会です。

まず地図を見てその地形が紹介されましたが、七つの教会の中で一番北側で内陸に位置する教会でした。

今日ではペルガマという場所だそうです。


❶ペルガモン教会の聖徒たちの信仰


13節でイエス様は厳しいことを言われています。「そこにはサタンの王座がある」と。

前の9節では、スミルナ教会の中にいる特定の人たちに向かって「サタンの会衆」という言葉を向けられましたが、さらに厳しい言葉です。



ペルガモン教会があった地域はギリシャ神話に出てくる神々をまつってある神殿や祭壇があり、「サタンの王座」とはそのことであったのではと語られました。人々はそこに祀ってある蛇なども癒しの神として拝むということがあったようです。

また、別の学者は「サタンの王座」は皇帝崇拝のことを指して言っているのではないか、とも言われており、エペソ・スミルナがそうであったようにペルガモンの町もまた、ローマ皇帝への服従を強制され、礼拝する神殿が建てられたようです。

それを拒んだアンティパスというキリスト者が殉教したことが13節に記されています。

イエス様は彼のことを「わたしの確かな証人」と言われました。

彼は皇帝崇拝を強要する力に、信仰ゆえに立ち向かっていったのですが、彼の死はサタンの力がいかに大きかったかを表していると語られました。


信仰をもち、神の守りの中にある。その上で、サタンの影響力を感じ、戦いがある。

ペルガモンの教会の人々はこのようなアンティパスの殉教をどう見て、どのように歩んでいたか。彼らもまた固く信仰に立ち、そのことをイエス様は非常に高く称賛されたということを読むことができます。


苦しみの中にある時にも、もしも私たちが、砂の上でなく岩の上に固く信仰を建てるならば、それは迫害や困難の嵐がやってきても、びくともしない、強靭なものとなるのです。

キリストという岩の上にしっかりと信仰を建てるということが非常に大切なのだと語られました。


❷ペルガモン教会の弱さ


イエス様に称賛された教会ですが、イエス様は「サタンの攻撃」はそのことだけでなく、教会内部にもあるのだと言われました。

サタンがどのように具体的に働いているのかを指摘されたのです。

14節でバラムと言う人の名前が出てきます。

いまちょうど祈祷会では民数記の講解説教が進んでおり、なんとこのバラムについて22〜24章で学んでいる最中ですが‼️ここで出てくるバラムは25章のバラムの姿であると語られました。


エジプトを脱出し荒野を旅していたイスラエルの民に向かって、彼らを滅ぼすために呪ってほしいとモアブの王バラクは占い師バラムを呼び出しました。ところが、神様はバラムに現れて、決してバラクとともに行ってはならない、イスラエルの民を呪ってはならないと告げられたのです。バラムはロバが口を開いて言葉を話したことを見、それから主の御使いに従い、神様の告げられたことだけを伝えるのですが、それが24章まで。なんとなんと25章では、お金を積まれて、神様に従わず妥協してバラク王に買収されてしまうバラムの姿があるのです。

彼は、イスラエルを呪いはしないが、イスラエルが神に怒られるようにとモアブの女性を送り、異教の教えを広め、不道徳な行いをするようにとそそのかす道を提示し、結果イスラエルの上に神様の怒りが引き起こされたのです。


さて、ペルガモンの教会にもこのバラムがしたようなことをしていた人たちがいた、というのがここです。彼らのことを15節「ニコライ派の教えを頑なに守っている者たちがいる」とイエス様は強く非難されたのです。

彼らは、偶像に捧げた生贄の肉を食べるようにと言ったのですが、それは、市場に出たその肉を食べる、ということではなく「偶像礼拝や皇帝礼拝の祭儀式に参加しましょう」と

いうことであったようです。

ニコライ派の人々は「それは大したことではないし、この地域の人々とうまくやっていくには、同じことを同じようにしていかねば。形だけなんだからやってしまえ。それは社会的義務を果たすことなのだ!参加するということは、良いことなのだ!」と神の御言葉よりも、人を優先し、神を見ることなく人を見て、妥協し、教会の中で人々をつまづかせました。


この背景には、そうでもしないとこのサタンの王座がある町でやって行けないだろうという

思い。そして異教的習慣が満ちている町で生き延びていくのだという思いがあったのではと語られました。彼らは形だけだから・・・とずるずると偶像礼拝に参加し、そして堕落していったのです。似たようなことが、今も、世界中至る所で、日本でもあるのだと語られました。


イエス様はこのような「異教の文化に浸って、それを同じように行うことは何の問題もないのだ」というニコライ派の人々に対して、はっきりと「わたしはニコライ派の人々の行いを憎んでいる」と言われました。(黙示録2章6節)


16節ではイエス様は言われています。「だから悔い改めなさい。そうしないなら、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣を持って彼らと戦う。」と。

驚くことに、イエス様はこの言葉をニコライ派の人々に向けて言っているのでなく、ニコライ派の人々を許しているペルガモン教会に対して言われているのです。

誤った主張をしているのに、それを放任しているならば「あなた方の態度は正しくない。わたしは悲しい。悔い改めよ」と言われているのです。


教会にはいろいろな人がいて良いという人がいます。しかし、それは正しい聖書の教えに立っているという前提が必要です。もしも間違っている教えの人の存在を許してしまったら教会全体が傷つくのです。その誤りの教えを主張している人々の背後にサタンの働きがあるからだと語られました。12節にはこのペルガモンの教会に対して「鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる」とイエス様のお姿が記されています。イエス様の姿勢を私たちは決して見て見ぬふりをしてはならない。イエス様に従う者として、イエス様の忌み嫌われることを許容したり、この世と妥協したりするニコライ派のような人々の働きを許し受容してはならないのだということ。


私たちは真理に固くたち、この聖書の御言葉の上にしっかりとあゆみ、偽りの教えを見分け、教会の聖さを保つことが求められているのだと語られました。

日曜学校では子どもたちに、同じようなハチミツの瓶をみせ、どっちが本物かわかる?

同じような絵画を見せ、どちらが本物かわかる?と質問がありました。

「うーん🧐」と首を捻る子どもたち。大人であっても、わかりません。

「どうしたら、本物がわかるようになるかな」という質問への答えは、「本物をよく学び、本物を食べる」つまり「本物をよく知るということ」なのだそうです。

聖書についても、異端と呼ばれる人々は、本の少しだけ変えて、うまくうまく人々を騙そうとするのです。それゆえに、しっかりと聖書に固く立つということが求められるのです。


❸勝利を得る者とされましょう


17節にはイエス様が勝利を得る者には「マナ」と「白い石」を与えると言われています。

イエス様ご自身がマナであり、イエス様との親しい交わりが約束されているということ、そしてイエス様の名が記されている石を与えられるということはイエス様を深く完全に知ることになり、イエス様と共に歩む者に変えられるということなのだと語られました。

ペルガモンの教会にイエス様が言われたように、間違っている人が一人いても受容しましょうと言いやすい私たちに対してイエス様がそれを喜ばれず、むしろ悔い改めを求められていることを覚え、神様がくださる聖書をしっかりと読み、祈り、励まし合い、従う者とされたいと思います。


「心の曲がった者は主に忌み嫌われ、まっすぐな道を歩む者は主に喜ばれる。箴言11章20節 聖書」

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