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【ヨハネの黙示録・講解説教2】序論2✴︎ヨハネの黙示録1章4〜5a節

更新日:8月18日



ヒガンバナが咲いているのを見つけました。白いヒガンバナも素敵ですね。パッションフルーツの蕾に蟻がたくさんやって来ていましたが、翌日パッと花を咲かせたのには驚きました。講壇には美しいゆりの花。日曜学校は元気なこどもたちの笑い声。牧先生の「みんな12弟子の名前言えるかな?」のクイズに「えっと、ヨハネ?」「ペテロ?」と答えるみんな。「一番若かったのは誰だろう?」の質問に、一番若そうにお兄さん風に描かれているヨハネの名前をいって大正解のお友達😆さあ、このヨハネについて今日は日曜学校・礼拝にて学びました。



❶使徒ヨハネについて


4節に「ヨハネから」とあります。この黙示録の書簡、手紙を受け取った教会の人々はこれで、誰からの手紙かがわかったわけです。ヨハネという名前もよくある名前でしたが、これを見た人々は「ああ、あのヨハネ!」とすぐに理解しました。

ヨハネは弟子たちの中で一番若かったのですが、同時に最後まで生き残った人物でもあります。若かったから残ったというわけでなく、神様のご計画によって残されたのだと語られました。ヨハネの兄弟のヤコブは、弟子たちの中で最初の殉教者となりました。パウロやペテロはローマ皇帝ネロの迫害の時代に殉教しました。これが紀元60年代のことです。ですので、この新約聖書の多くを記したパウロによる書簡はこの60年代までに書かれたのだと語られました。ヨハネ以外のマタイ・マルコ・ルカの福音書も50年代から60年代にかけて記されたとのことです。こういう中で、ヨハネは1世紀の終わりまで生き延びました。


イエス様の十字架の死・復活・昇天の後。弟子たちによる福音宣教が進められましたが、当時の激しいクリスチャン迫害の渦の中でもヨハネは最後まで生き残ったということになります。神様のご計画ゆえでありました。

彼の福音書と3通の手紙は90年代前後に書かれて、この黙示録は90年代半ばに書かれたと言われているとのことです。


ヨハネは、文書を残しただけでなく、牧師としての働きもしました。エペソの教会の牧師です。エペソはアジア州の首都であり、第三次伝道旅行で、パウロはエペソに3年間とどまり教会を建てあげ、そこにエペソの信徒の群れができたのです。パウロの愛弟子であるテモテがこの教会を牧し、のちに立てられたのがヨハネであったわけです。彼はここにおいて1世紀の終わりにかけて牧会したと考えられているとのことです。


ヨハネの福音書はエペソから書かれ、さらにヨハネの手紙第一もエペソの教会に宛てて書かれたもの。そして黙示録もエペソを含めたアジア州の教会にと書かれました。

この黙示録が書かれたのはエーゲ海に浮かぶパトモス島でした。

年上の人は殉教し、生き残ったヨハネにも迫害の手が伸びて、パトモス島へと島流しにされたのでした。それは9節の御言葉にあるように「神のことばとイエスの証のゆえに」とヨハネは語ります。


当時の迫害は凄まじいものでありました。ヨハネはキリストを証するがゆえに迫害され流刑となりましたが、彼が書いた手紙は、決して泣き言ではなく、彼に与えられた使命として、諸教会の信仰を励ましてゆく書簡だったのです。エペソや他の教会のキリスト者たちは、教会のリーダーであるヨハネが捕えられ、落胆したかもしれませんが、そのような状況にあったからこそ、神様はヨハネに幻を通してキリスト者に与えられている素晴らしい約束を手紙という形で送って励ましてくださったのです。これは同時に今日の私たちの信仰の励ましになる書だと語られました。迫害も危険もない現代。しかし、信仰生活は決して楽ではなく、戦いや誘惑が常にあります。信仰を持っていることを惨めに思い、重荷に感じることもあるかもしれません。しかし、そんな中でも神様が励ましを与えてくださっているこの書は読み込むべき書であるのです。


❷七つの教会


いつ殺されるかもわからないヨハネが自分の牧する教会とアジアの諸教会にあてて書いた手紙。ここには「七つの教会へ」と記されていますが「3・7・12」という数字は聖書において完全数を表す数字であり、この七つの教会に限らず、アジアにあるたくさんの教会をまとめた形で七つと表しているのだと語られました。


使徒とはイエス様から直接教えを受けた人々ですが、その使徒の一人であったヨハネが流刑となり、世の中を治めるローマ皇帝は自分を神として崇めよと人々に命じ、反抗するキリスト者を次々と迫害しました。キリスト者にはこのような外部との戦いがあり、同時に教会内部にも問題を抱えていました。教会の中に「偽の教え」をする者が出てきたのです。2章になると「バラムの教え」や「ニコライ派の教え」という言葉が出てきますが、その他にも不道徳な歩みをする人々も出てきました。

神の教えでないものに従って行く人々が出てきて、神の御言葉の基準でなく、この世の人の基準、少しずつ少しずつ世に妥協してゆく姿があったのです。イエス様は「熱くも冷たくもない、吐き出したい」とそのような人々について言われました。教会の外からの戦いがあり、内部の腐敗があった、そのような霊的な戦いにある教会に対して主は、天の視点に立って堅く信仰に立つ歩みをしなさいと勧めておられるのです。


キリスト者が直面している目にみえる事柄の背後に何があるのか。

そこには、キリストと反キリストとの戦いがあること。

子羊と竜の戦いがあること。

神の国とこの世との霊的な戦いがあること。

このようなことを神様はヨハネを通して明らかにされたのです。


神様はイエス様を通して最終的に導かれる勝利をしっかりと指し示してくださっています。

救われたと同時に起こってくる信仰の戦いがあります。人生の歩み戦いなく、ということにはならないのです。その時に私たちはどこを見ているのかが非常に重要です。

10年や20年先どころではない、もっと先に神様が与えてくださる最終的な勝利を見て歩んでいるかということ。

これから世の終わりに向かっていいことが起こるかというとそのようには聖書には書かれていないのです。

むしろもっと状況が悪くなる。戦争があり、原油高、為替が変わり、世界の秩序が変わって、もっともっと悪くなる。信仰を持っているがゆえに迫害にあうということもあるかもしれない。本当の意味で信仰がふるわれるのだ、と語られました。


時代に流され、時代が大事にしているものにすがるのでなく、神の御言葉にとどまるということ。世の中は世の中。神の言葉は神の言葉。ここにしっかりと立つのです。

歩みが困難になったとしても、神に信頼する。私の命を持っておられる方に従う。そこに立てるか立てないか、なのだと。


❸私たちの拠り所である神様


ヨハネは4節において、三位一体の神への祝祷から始めています。「今おられ、昔おられる方。やがて来られる方」と。出エジプト3章14節に、モーセに神様がご自分の名を「わたしは『わたしはある』という者である」とお示しになりました。これは他の何者にも頼らずにご自分のみで存在する、という意味です。時間にも制約されることもない。私たち人間は常に時間の制約にあり、そこについてゆかねば取り残されてしまう存在です。

しかし、神様はそうではない。この神様が言われる信仰の営みに自分自身を置き、神様に愛され、召されてここに置かれている、そういう神様のご計画に従って生きることの恵みをおもいます。

「今おられ、昔おられ、・・・やがておられ」でなく、「やがて来られ」となっていることにも注目したいとおもいます。

これは将来について神の主権が表される決定的な瞬間がくることがここに暗示されているのだと語られました。神様がこの世界の歴史にやがて決定的に関わって来られる!ということを示しておられるのでは、と。

不安で不確定で常に悩まされ、迷わされ、動かされやすい私たちです。

世界の情勢も不安を抱えている現状です。しかし、一時的な不安に置かれたとしても、主権者であられる神様がその不安の只中で支えてくださり、必ず、困難を乗り越える力と恵を与えてくださいます、平安があなた方にあるように、とヨハネは記したのです。


「また私は天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべての者がこう言うのを聞いた。『御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々

限りなくあるように』黙示録5章13節    聖書」

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