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【ヨハネの黙示録・講解説教1】序論1✴︎ヨハネの黙示録1章1〜3節

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秋の風が気持ちの良い今日この頃。とんぼがあちこちで楽しそうに飛んでいます。

季節の移り変わりの中で、主の造られた被造物の美しさに心和まされます。

さて、今週からメッセージは黙示録の講解説教がスタートです。


黙示録というと「難解な書物」というイメージがあり、とっつきにくく敬遠されがちです。しかし「聖書は神の誤りなき御言葉である」という信仰の上に立つ時、この黙示録が66巻のうちの一巻であるということ、しかも、大きな私たちへの「希望」を与える書物であることをよく理解したいと思います。


黙示録は最後まで聖典に入れるかどうか議論が続いた書物であると語られました。幻として語られているのでその解き明かしをどのようにするのか難しいと考えられていたのです。

しかし黙示録は、この終末の時代にやがて起こることをはっきりと伝えています。

天変地異や疫病・戦争など、私たちが少しでも長らえるようにと知恵と力を尽くして働いたとしてもどうしようもない事象が目の前に起こって来ています。

この地は決して未来永劫ではなく世の終わりが必ず来る、と黙示録を読み進んでゆくときに、そのような理解に導かれてゆくのです。

黙示録は、噂や人の評価ではありません。神が何を言われているのか、伝えようとされているのかを、この書簡を読み理解が与えられてゆくときに、知ることができるのです。


「この書を読みづらくしているのは、サタン・悪魔である」という言葉も聞きます。

なぜなら、この書にはサタンの結末がはっきりと語られているからです。

敗北の詳細と処罰、終わりがきっちりと書かれているがゆえに、これを人間の目に入れたくないのは当然と言えば当然です。

「こんな難解な黙示録など虚しく意味もない」と人間の心に働きかけようとしていると言っても過言ではありません。

神様が私たちに「希望」として与えてくださったこの預言書をしばらく礼拝の中で聞くことができることを非常に嬉しく思います。



1節に、「イエスキリストの黙示」とあります。黙示とは「隠されているものが明らかにされる」という意味です。神はこの書を通して隠されていたことを明らかにされた、ということになります。決して私たち人間を混乱させたり、わからなくさせたりするのでなく「理解するため」にこの書を与えてくださったのです。

それは例えば美術館などで作品が発表される時に、作品を覆っていたカバーがサーっと取られて人々の前に明らかにされる、そのようなイメージですよと語られました。

神様はこの黙示録を誰に与えられたか。それは「イエスキリスト」であり、イエス様はそれをヨハネに与えられたと知ることができます。

そしてこれは誰に示すためか。しもべたちにとあります。しもべとは私たち一人一人のことです。つまり、神はすべてのものを明らかにされるお方であり、神を愛し、信じる人々に惜しげもなく語ってくださる方であり、またそれは、悲しみ・苦しみを与えるためでなく、希望と喜びである真理を語ってくださるがために、この書を通して私たちは励ましを頂くことができるのだと語られました。


❶すぐに起こるべきこと

1節に「神はすぐに起こるべきことを」と書かれています。この言葉の理解について語られました。この「時」というのは、近い将来に起こるとか、世の終わりがまもなく来るからその兆候を知るために読むとか、まるでノストラダムスの大予言のように捉えるとか、そういう意味ではないのだ、と。この1節の御言葉の背後にはダニエル書があると語られました。


ダニエル書2章28〜29節にはこのようにあります。

「天に秘密を明らかにするひとりの神がおられます。この方が終わりの日に起こることを、ネブカドネツァル王に示されたのです。・・秘密を明らかにされる方が、これから起こることをお示しになったのです。」

イスラエルの民が敗北のうちにバビロン捕囚として捕えられた優秀なダニエルという人が、そのバビロンの王ネブカドネツァルが見た夢を言い当て、その解き明かしをしてゆく箇所です。

「秘密を明らかにされる」とダニエルがいった言葉が「黙示」に相当する言葉であり、

ダニエルは王の前で、次々と神様の力によって夢を解き明かしてゆくのです。


王は「巨大な像」の夢を見ました。

その像は四つの部分からできていて、頭は純金。胸と両腕は銀、腹とももは青銅、スネは鉄足の一部が鉄・粘土といった具合です。

ダニエルは、これは世界の歴史にこれから現れてくる王国なのだといったのです。

頭はこの時代の支配者であったバビロンです、と。次から出てくる国は、この時ははっきり国名が出されませんでしたが(もちろんダニエルにはその時のバビロニアしか見えていないわけですから)後世の私たちが見るときに、それは、一般的に、ペルシャ→ギリシャ→ローマ帝国、と理解することができます。


そして、この夢の重大なメッセージは、34節以降のダニエルの言葉です。

このバビロン王が見ていると「一つの石が🪨人手によらず、切り出され、巨大な像を粉々に砕きそれはみな吹き飛んで跡形もなくなり、像を打った石🪨が大きな山となって全地を覆った」というのです。


ダニエルの解き明かしによると、実に、これは天の神によるのだ、と。バビロンの後にも様々な巨大な強い国が次々と現れてくるけれども、それは一時的に盛んになったとしても、やがて衰退する、という歴史を繰り返す。そして、一つの石なるキリストが現れ、やがて神の国が現れて、その国こそ、永遠に続くのだ、と。


そして、このダニエルが語っていることを受けての黙示録1章1節になるのです。

ダニエル書では「神の国は終わりの日に起こるべきこと」と言われており、黙示録では「すぐに起こるべきこと」と言われています。この言葉が3節の「時が近づいているからである」という御言葉に関連しているのだと語られました。


イエス様が宣教開始された時の第一声は「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。

この言葉の意味は「神の国は近くまで来たが、まだここには来ていない」という意味でなく、「神の国はもうここに臨み始めました」という意味なのだと語られました。

つまり、最終的な完成はまだだけれども、もう神の国はすでに実現し始めた、という意味なのです。


ヨハネがここで伝えていることは、ダニエル書が「終わりの日に起こる」といっている神の国は「今やここに実現し始めている」ということなのです。


使徒の働き2章においてペテロがペンテコステの説教で語りました。

「『終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ』(ヨエル書の預言)で語られていた預言が今ここに成就しました」と。

第一ヨハネ2章18節には「今が終わりの時・・」とあります。

黙示録は世の終わり直前だけを語っている書でなく、聖書がいう「終わりの日」すなわち

イエスキリストの初臨から再臨までの全期間に対しての言葉であり、

そうすると、1世紀のクリスチャン、そして今を生きる私たち21世紀のクリスチャンに関わる言葉だと理解できます。


人手によらずに切り出された一つの石。イエスキリストは、地上に現れ、十字架、復活、そして昇天され、今神の右の座につかれており、旧約で予言されていた神の国・神のご支配はスタートした、これが聖書のメッセージなのだと語られました。


❷天からの解説書としての黙示録

2節において、この書簡は「神のことばとイエスキリストの証」なのだと記されています。

つまり、神がイエスキリストを通してなされたことの神のメッセージをヨハネは幻として見たということです。

神様はイエス様を通して何をなさったか。この世界はどのような状態になり、神様はこの世界をどのように導いておられるのか。どう導かれてゆくのか。このようなことを神のメッセージとしてヨハネは幻を通して受け、私たちに伝えようとしているのです。

ある学者が「黙示録は神様がイエス様においてなさったことについての天のコメンタリー、天の解説書だ」と言われたそうです。


神様がイエス様の地上の生涯。十字架・復活・昇天において何をなさったか。「終わりの時代」に生きる私たちにそれはどんな意味があるのか。天の視点でそれを私たちに教えてくれる天の解説書、ということです。


私たち人間にはどんなに頑張ってみても、今や少し先の将来を不確かながらに予測するぐらいが精一杯です。しかし、神様の高い視座があるということ、私たち人間よりも遥かに高く確実な視点で、計画され、じっとこの地上を見られている神様のことを覚えたいのです。


ヨハネがこの手紙を書いた時代はクリスチャンたちは非常な迫害下にありました。命をかけた霊の戦いがあったのです。この世と調子を合わせれば楽になる。この地上の視点で生きてく道を選択するなら、神の国価値観なんて捨ててしまえ、とこの世と妥協せよという誘惑が満ちるなか、このヨハネの黙示録の書簡がアジアの諸教会へと届けられていったのです。


「神様による天からの解説書」によれば、「神様の視点」によれば、神様がイエス様を通して行われたみわざゆえに今は「歴史の最終段階」にあります。終わりの日はすでにスタートしたのです。その完成に向かうプロセスにある今。神様の視点において、現在がどの時代であって、本当の主権者が誰で、その方がどのように働いておられるのか。このことをよくよく悟って「天の視点」で生きるということがどういうことなのか。黙示録はその教科書であるとも言えます。

この書を理解してゆくときに、神の国最終的な完成と勝利を見つめて歩むことができる。それによって希望が与えられてゆく。励ましの書であることを覚えます。


❸幸いな生き方を求める


3節において「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである」と記されています。

この書は、当時の教会で朗読されました。「あなた方はこの書から逃げてはいけない。向き合って行かねばならない」と語るのです。神の言葉は私たちが選り好みしていくのでなく、この聖書66巻全体を通して何を神様が伝えようとされているかを学び、知ることが大切なこと。「書かれていることを守る者たちは幸い」とあるように、神の視座に聖書を通して引き上げあられ、主の御心を知り、従う者とされたいと願います。


「みよ。わたしはすぐにくる。この書の預言の言葉を守る者は幸いである。黙示録22章7節

聖書」



 
 
 

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