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「何を大切にするべき?」*ルカ8章34〜39節

更新日:2022年6月29日


春の香りあふれる日曜日。暖かくなってきて心も軽くなります。自然の美しさをいっぱい吸い込み神様の御名を褒め讃えます。


メッセージは「あなたの家に帰りなさい。」と題してルカ書より。

先週はレギオンというローマの一軍隊の数を表すような悪霊に取り憑かれた男の人がイエス様によって解放されたところから学びました。

この男性が墓場で住み異常な状態で苦しめられていたところから、イエス様によって、正気を取り戻していった、そのような壮絶な様子を目の当たりにしていた人々たちには2種類の人々がいました。豚の飼い主たちと、彼らが慌てふためいて町に逃げ出した後もその場に残って男性の変化をつぶさに見ていた人々です。



❶何を大切にすべきか。

逃げ出してきた飼い主たちに話を聞いたゲラサ周辺の人々は、何が起こったかを見ようと出てきて、悪霊の去った男が正気に返って座っているのを見て、驚き、恐ろしくなり、イエス様に自分達の元から去ってほしいと願いました。(35〜37節)


このゲラサ人たちと対照的なのは、イスラエルの人々です。来週のメッセージ箇所になりますが、イエス様がガリラヤ湖を渡ってゲラサ人の町デカポリスへいってしまったことを聞き、ああイエス様、早く戻ってきてくださいと彼らはひたすら願っていました。イエス様が帰ってこられると大歓迎で迎えた(40節)様子から、それがわかります。


一方、異邦人であるゲラサ人にとって豚は自分達を豊かにしてくれる資源でした。それらの損益とこの予想だにしなかった男性の変化に彼らは恐ろしさを感じ、イエス様に対して、「私たちが守ってきたものを壊すなら出ていってください。」と願い出たのです。


私たちも「私たちにとって何が大切なのか」を考えることが必要なのだと語られました。

「私が大切にするもの」と「人々が大切にするもの」。


例えば「礼拝をすること」。なぜ、日曜日に、大事な「時間とお金と体」を、神を礼拝するために、教会に足を運ぶことに用いるのか。それは、主を知らない人々にとっては不思議なことです。貴重な休息とリフレッシュ。わざわざ大事な時間やお金をそこに費やすなどもったいない、馬鹿らしいと思えることでしょう。


なぜ、礼拝を大切にするのでしょう。それは、神が私に何をしてくださったかを知る時に溢れ出てくる心そのものです。愛する一人子を私のために送り、十字架につけ、その救いを受け入れたときに、永遠の滅びから解放し、永遠のいのちを与え、神の養子としてくださった。その深い愛を知り、理解するときに、その愛に応えて行きたい!と思う。それが礼拝として表されていくのです。


奉仕、ささげ物、祈り会を大切にすること。そのようなことは全て「主が私に良くしてくださったすべてに対し、私は主に何と応えたら良いのでしょう。」(詩篇116篇12節)のみことばの通り、心の底から溢れ出てくる思いの表れなのです。


そしてここで、この男性がまさに、そういうところに自分の身を置いているということを知るのです。

彼は、自分のところからイエス様が去り、いなくなってしまうと知った時、「あなたのおられるところに私を置いてください。」と言いました。(38節)


ヨハネ12章26節「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいるところにわたしに仕える者もいるべきです。」と言われるイエス様に応えるようにこの男性はそれを実行しようとしたのです。


私たちの信仰がぶれないために必要なことは、イエス様がどういう方で、何をしてくださり、そのことに対して私が何をなすべきかを知ること。私の価値感の中心にあるものは何なのか。それをいつも心に据え置くということ。。。


❷イエス様が男に命じられた意図とは

38節「お伴をしたいとしきりに願った」男性の応答の姿は、35節で「イエスの足元に座る」という様子からもわかります。


イエス様の足元に座るという元々のギリシャ語には「弟子入りする」という意味があるそうです。この姿は「マルタとマリア」のマリアがイエス様の足元に座る姿を思い出させます。


イエス様とご一行をもてなすことで頭がいっぱいのマルタが「妹のマリアにも手伝うようにいってください!」といってきた時に、イエス様はご自分の足元に座り、みことばに聞き入っていたマリアの態度を評価されました。

「マルタ、マルタ。あなたは色々なことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。・・・」(ルカ10;42)と。


この男性は、霊肉とも悪霊から解放され、一生イエス様の元にいたい、だから弟子となることを決意し「お供したい」と申し出たのです。ある意味これは直接献身の申し出とも言えるのだと語られました。


しかし、イエス様はこの男に向かって「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて話して聞かせなさい。」と言われたのです。


イエス様、「わたしについてきなさい」と言われても良いのでは?

なぜ彼の思いを汲み取ってくださらない?

悪霊に憑かれていたから、またそうなるかも?ふさわしくないと?

彼はよく知らない人だから、弟子にされないのですか?

と様々なことが浮かびます。

しかし、ここでイエス様には大事な意図があったことを考えさせられるのです。


以前に「牧会ジャーナル」という牧師向けの小冊子の中で、一つの事例が書かれていました。ある教会で、誰からみても模範信徒であり、将来有望な人がいました。教会の人々は彼を推薦して、人々の期待に応えるべく彼は神学校に入学しました。

しかし、在学中「これは本当に私のビジョンなのだろうか」と悩み続け、ついに牧師にならないという選択をしたのです。それをきいた教会の信徒たちは彼を責め立てました。この事例への解説として「熱心な信徒、模範となる人は、献身すれば良いと人々は安易に考えやすい。また、周囲のそのような雰囲気と共に、本人も思い込みをしてしまい、神様の召しを誤解しやすいのだ」と記されていたそうです。

それは教会にとって不幸なこと。そして献身に際して何よりも大切なのは「神様の召し」であること。本人と神様の中で決められて行くことであることを知るのです。

何か忠実であるとか、賜物を持っているのでは?と思うとすぐに神学校へ、直接献身へと人々は考えるけれども、決してそうではなく「神様からの召し」がなければ、それはあり得ないのです。


イエス様についていきたいと切望した男性に向かってイエス様が言われた言葉は「あなたの家に帰りなさい。」でした。

あなたについて行き伝道したいという思い。

時に「伝道」という言葉は、水戸黄門の印籠のように出されがちです。しかし不特定多数の人々に福音を語るということは、もしかすると案外難しくないことであり、むしろ「自分に神様が成されたことを自分の身近な人に語ってゆくこと」の方が難しいことであるのではと語られました。


さあ、伝道集会を開きます。さあ、伝道です!と安易に私たちは言ってしまう。しかし、自分の家族・友人に対して「イエス様が自分にしてくださったことを語っていこう」となると、尻込みしてしまう。口を閉ざしてしまう。イエス様が問われているのは「まず経験したことを家族に話しなさい」「まず行くべきところは家族だよ。さあ、いっておいで。」ということだったのです。


そして、ここでこの男性の立場になって考えてみますと、それがそんなに簡単でなかったことを思うのです。彼は家族や知人にとって「迷惑者」そのものであったことでしょう。

家族は彼のことを「恥ずかしい」と思い、関わらないようにしていたかもしれません。


悪霊に支配されていたのです。

正気に戻ったとはいえ、家族は快く受け入れてくれるだろうか。そもそも彼の帰りを待っていてくれたのだろうか。

「あー。あいつが帰ってきてしまった」と災いをもたらす者のように言われて、門前払いされてもおかしくない状況です。


だから、彼にとって、これは非常に勇気のいることで、イエス様についてゆくことよりも難しい道であったのではと語られました。


しかしイエス様は「その現実から逃げることなく、そこに戻って証しなさい。」と言われたのです。なぜイエス様はそう言われたのか。

それは、この男性の罪が赦されている、もう変わったのだ、さあ、その姿を家族に見せなさい。ということでした。


救いは人生を、人格を、価値観を変えます。

もしも救われても変わらないという現状であるならば、それは、その人が救いを理解していないということになります。キリストを信じる私たちは、キリストに似たものとかえられてゆくと聖書にあるからです。(「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」第二コリント3章18節)


これまで、平気で嘘をつき、人を踏み台にし、奪い、傷つけてきた・・・そのような人であったとしても、救われたら、人を愛し、赦し、仕えるものに変えられてゆく。。。

神が私にしてくださったことを、「家に帰り、見せていく」ということ。伝道とはそういうことであるのだと語られました。

私たちそれぞれに与えられた家族・友人・知人に真実なる主がお出会いしてくださることを心から願いつつ、私たちが「帰って」証してゆくことができますように。


「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。ルカ8章39節。」                         聖書


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