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「愛の負債」*ローマ書13章8〜10節


コロナ禍で行うことができなかった子どもキャンプ。今年は秦野教会と合同で丹沢にて♡

魚掴みにスイカわり。川遊び、バーベキュー!日頃体験することができないことを、大自然の中に解き放たれて存分に体験!大人も子どもも心身ともに豊かなひとときを過ごしました。大学生のお兄さん・お姉さんたちに川で遊んでもらったり、目ぼしい枝を見つけてスイカわりに挑戦!嬉しくって嬉しくって時間を忘れて駆け回り遊ぶ姿の眩しいこと!

みことばは、詩篇1篇2〜3節でした。

「主の教えを喜びとし、昼も夜も口ずさむ。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすべきことは全て栄える。」

みことばを味わいつつ、ぴったりな景色も見つけてパチリ!

素晴らしいキャンプを心から感謝します♡


さて日曜日のみことばは「愛は律法の要求を満たす」と題してローマ書より。


❶「私たちは負い目のある者である」

主の祈りの中でこんな一節があります。

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」さて、この負い目・負債とは何のことだろう・・・。

この礼拝のみことばから、その意味が理解できたこと感謝です。


パウロは8節で「誰に対しても、何の借りもあってはいけない」と記しています。貸し借りによって人間関係が崩れることがあるからです。「ただし」とパウロは続けます。「互いに愛し合うことは別です」と。この「借りがあってはいけない」という言葉は「義務」と同じ意味の言葉であると語られました。


パウロは「貸し借りはいけない。しかし、愛し合うことは例外だ」というのです。なぜか。

それは、私たちが「他人を愛する」ということについて、いつも・いつになっても負債を負っている者であるから、というのです。

他人を愛しても愛しても、十分にそれを果たし終える日は来ない、と理解すること。この点において、恒久的な義務があるのだとパウロは語ります。


パウロがこのようにいうことの理由は何か。

ローマ1章14節が開かれました。

「私は、ギリシャ人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。」

パウロの生き方・考え方のベースにあったものは「神様への深い感謝」でした。


彼の人生はどんなものだったか。

パウロは迫害者でした。使徒の初めの殉教者ステパノが石打にあって召される時、彼は石打つ者たちの服の番をし、キリスト者を片っ端から追いかけ、追い詰め引き摺り出し、牢に入れ激しい迫害を続けていた人でした。その彼が、あのダマスコの途上でキリストに出会い、180度全く違う人生に歩む者に変えられた。

あのダマスコの途上で、衝撃的な自己否定・自己破壊があり、彼は神と出会い、キリストを宣べ伝える者へと、自分を救ってくださった神の愛に立ち返る者へと変えられたのです。


人々に対して負い目があると語るパウロの心には、自分を救ってくださった神への深い感謝と共に、その神の「全ての人が救われることを望まれている」という御心を知る者として

その神の望みを行いたいという、神の愛への応答が溢れていたのです。


「私もこのベースに立っているだろうか。」そのように語られました。

以前は、私は神に敵対していた者でした。神を神として崇めず、悲しませていた。しかしそんな私を神は諦めずに待っていてくださり、頑なな心に働いて聖霊の助け・働きを通して救いを受ける者へと変えてくださった。


その感謝をどのように神にお返しするのだろうか、と。


❷「愛は律法を要約する」


ある時、イエス様に、律法学者が聞きました。

「どの律法が一番大切ですか」と。

イエス様は答えられました。「心を尽くし、命を尽くし、力を尽くしてあなたの神主を愛しなさい。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」


つまり律法全体は、この二つのことでまとめられ、その本質は「愛」なのだと言われたのです。

しかし、「愛」という言葉を掲げたらなんでも良いということでない。愛を強調するあまりに聖書の教えを軽んじることがあってはならない、愛の行動は律法に反するものではないのだということ。


十戒を見ますと

「あなたには わたしの他に、他の神々があってはならない」

「あなたは自分のために偶像をつくってはならない」

「あなたはあなたの神主の御名をみだりに唱えてはならない」

「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」

「あなたの父と母を敬え」

「殺してはならない」

「姦淫してはならない」

「盗んではならない」

「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」

「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」


「〜ならない」と否定形の言葉なので、私たちは否定的に受け止めてしまいます。

しかし、これらのことは、私たちがこれを守ることにより、隣人を愛するということに繋がるということを知ります。

「殺してはならない」という言葉は、殺人の意味だけでなく、言葉や態度を持って人を傷つけることも含まれ「盗んではならない」というのも相手を大事におもうからこそ相手のものを大事にするのです。


10節でパウロは語ります。「愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ愛は律法の要求を満たすのです」

私たちは全ての人に愛の負債を負っており、「そのことをしない」ということにより、愛を示してゆくということ。まず自らを引いて、他者はどのように思うのかを考え、与えられている自由さえも制限することのできることーそれが愛という行為であることを覚えるのです。


地味に見えるような戒めも一つ一つを大切に守ることによって、周りの人への愛を表してゆく歩みとなること、そしてそれが神が喜ばれ私たちに望まれている礼拝生活であることを知るのです。

聖霊はそのような私たちを助け、力づけ、いつも支えてくださり導いてくださること。

みことばから教えられキリストの似姿へと変えられてゆく者とされたいです。


「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように、主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。第二コリント3章18節」    聖書

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