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「本質を問う」✴︎ルカ書11章37〜41節

更新日:2月11日

雪が降り、⛄️きゅっと寒くなりました。今年も、もう2月。そしてその寒さの中でも明るく実り続ける柑橘類で溢れる二宮です。

子どもたちと元気よくはじまる日曜日。感謝します☺️

みことばはルカ書の講解より「うちにあるもの」と題してメッセージ。


第一サムエル記16章7節に「人はうわべを見るが、主は心を見る。」という御言葉があります。私たちは人や物事の外側を見て、判断してしまいますが、それは本質を表しておらず、私たちは、その心・内側がどうなっているのかをよく気をつけねばならないのです。



❶習慣に頼ってしまうことの危険性


イエス様が悪霊を追い出された時に、イエス様についてのパリサイ人たちの反応は「神の御子」の力ではなく「ベルゼブル(悪霊の親玉)」の力なのだ、というものでした。

このようなやりとりを見るときに、パリサイ人たちとイエス様の関係が見えてくるのです。つまりどこまでも並行、対立してゆく関係、です。


しかし、そんなパリサイ人の中にも、イエス様の教えを聞き、御業を見る中で、心動かされる人々がいました。彼らはイエス様を食事に招きました。


このルカ書11章37節からの箇所は、イエス様に好意を持っていた彼らが、イエス様のなさることに違和感を感じ、反対する心、意義が出てくる、そのような場面なのです。

それはイエス様が食事の時に、手を清めなかった、ということに始まります。

手を清めるとは、私たちが食前に手を洗うといった衛生面からの行為ではなく、彼らの伝統・習慣による「きよめの儀式」でありました。


パリサイ人・ユダヤ人たちは、自分達は神に選ばれた民であり、もっとも優れた民族だと思う時に、外の世界は汚れていると認識していました。ですから、外出してユダヤ人以外の人々と空間を共有し、交わる時に、外国人たちの吐いた息を吸ってしまった、汚れてしまったという意識を持ち、それはひたすら神の前に自分を汚れさせる行為であると考えたのです。

ですから、家に戻り、入る時には、「水」を通して自分を清めました。

今私たちが用いる洗礼槽は元々は「ミクベイ」と言ってユダヤ人たちがその時に使っていたお風呂に由来するそうです。

水が入って、体を清め、それが外に流れてゆき、家に入室することができるように設置されていました。

彼らの行為は、汚れてしまった自分を神に受け入れてもらうために洗う・・・そのような日常の儀式でした。


イエス様を家に招いたパリサイ人は「この人の話をもっと聞きたい」と尊敬の眼差しでイエス様を見ていました。それなのに、最低限しなければならないこの「清めの儀式」をイエス様はスキップして、食卓につかれてしまった。

この箇所はそのような情景なのです。


39節には「主は彼に言われた」とあります。

普通福音書を読む時には対話が書かれている箇所には「イエスは」と記されています。「主は」という表現は明らかに少ないのです。しかし、ここで、それが記されている意味はおそらく、パリサイ派とイエス様との考えの対立があり、ルカはあえて「主は」と記したのではと語られました。


40節では、イエス様の行動を不思議に思い、不信感を持っているパリサイ人に向かってイエス様が「愚か者」と言われています。

聖書の知識に富み、経験を積んでいるが、価値観に自分の考えを持たず、判断力がない、思慮の分別も付かずに、さまざまな面でマニュアル化されている中で、取り決められた決まり事をただただ行なって適応しているだけの彼らへの叱責です。

彼らはそれらの至上主義の上にあり、波風立てず、このままでいいじゃないか、とただただそれを行なっていた。

その事柄の本質を考えているだろうか?

イエス様はそれを問われているのです。


教会内においてもこのようなことが見られます。

「ずっと前からこの教会はこうです。」「このようにしてきたからこれからもそのようにしたい。」と、その本質に立つことなく、その教会の伝統や習慣、文化に立つということはとても残念なことなのだと語られました。


例えば礼拝の講壇に置く植物をとっても、その本質を考えることなく「私の考えはこうです」「今まではこうでした」「伝統・習慣だからそれでいいでしょう?」というのでなく、なぜ植物を置くのか、その本質と意味を聖書から理解しそこに戻ることが必要なのです。


神様は私たち人間をこの地上の植物を神様に代わって治めるようにと、代理人としての務めを与えられました。私たちは「地を治めている象徴」として植物を講壇に置くのです。

礼拝式についても、なぜ、礼拝の真ん中に報告の時間があるのか。最後にすればいいではないか、そのような意見もあるかもしれません。

しかし、聖書を学ぶときに、礼拝という一つのパッケージの中に、神の交わりと人との交わりがある、そのようなことを思うときに、一つ一つのプログラムの順序にも大きな意味があるのです。


私たちは、ただただ今までこうだったから、周りがこうだから、人がこういうから・・・ではなく、聖書がどう言っているか、神様がどう求められているか「その本質を問う」ことを選択して行きたいのです。

聖書が語っていること、その教えに耳を傾けてゆくこと。


❷本当の聖さは心から


39節でイエス様は言われました。

「あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。」

食事の際の清めではなく、最終的に取り扱われなければいけないのは「心」なのだ、本当にこだわらなければならないのは器(清めの儀式)ではなく、「内側が清いか清くないか」なのだとイエス様は言われたのです。


なぜイエス様がそのような儀式をせずとも食卓につけたか。

それはまさしく「イエス様はきよいお方だから」です。

神の御子、汚れなききよいお方なのです。

彼らはイエス様に対して全く理解していなかったのです。


貪欲とは、暴力・略奪を意味し、

邪悪とは、悪・よこしまという意味です。これは罪人である私たちの心にある言葉を指しているのだと語られました。


パリサイ人だけが特別悪い心を持っていたのではありません。イエス様は私たちすべての人間にこの言葉を向けられているのです。

自分の罪をわかっている人は、イエス様に「貪欲」「邪悪」と言われた時に、

それがよくわかる。罪と向かう時にそれがわかるのです。

そうやって私たちは、イエス様のもとに身を寄せたのです。


「あなた方は、体裁ばかりを見ているが、外側は立派でもそれはうわべだけである。ちっとも真実と向き合おうとしていない。洗いの儀式をしたとて、それで汚れている、汚れていないなど、関係ないのだ。そうでなく、重要なのはあなた方の心なのだ」とイエス様は言われたのです。


41節でイエスさまは「内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ。あなた方にとって、すべてがきよいものとなります。」そのように言われました。

ザアカイの話が語られました。

ザアカイは当時のユダヤ社会において、鼻つまみ者でした。

ローマの手先となって同胞から大金を巻き上げ、自分だけ私腹を肥やす取税人でした。そんなザアカイにイエス様は「今日あなたの家に泊まるよ」と声をかけられました。イエス様がザアカイの家に入り、そして福音がこの家に来た時に、ザアカイの心は深く取り扱われ、彼の心が変わったのです。彼は救いを受け入れました。それまでは、彼にとっては、金・権力・名誉・権威・人からの栄誉がすべてでした。神を知らなかったのです。しかしイエス様に出会い、それらのものをすべて捨てたとき、代わりに彼の心を支配して下さったのはイエス様でした。そして彼は今まで手にギュッと握りしてめていたものを、離してゆくのです。


ルカ19章には彼の言葉が記されています。

「主よ。ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。誰かから脅し取った物があれば、四倍にして返します」

金や宝が心を占めていたザアカイのところに、イエス様が来られ、彼の心の王座にイエス様がお座りになった時に、そこから神様への思いと奉仕が湧き上がってきたのです。


私たち一人一人は、神様によって作られた作品です。(創世記2章〜)

しかし、神様の命令を守らず、作品としての「形」は残ったが、内側の大切なものがなくなりエデンから追い出されてしまった。

しかし憐み深い神様はこの壊れた関係を修復してくださろうとして、愛するたった一人の御子をこの世に送り、イエス様を信じる者は、その信仰一つで、永遠の命、神様との交わりを与え、天の御国に入れるようにしてくださったのです。


そこで問われることは「こんなことをしてきました。」「こんなに慈善活動をしてきました」そんなことではないのです。

人は行いによって救われるのではない(エペソ2章8・9)、イエス様を心に迎え入れるかどうか、ただ一つ、この信仰によって救われるのです。

そして、その王座にイエス様が座ってくださるときに、神様に私が何をしたら喜んでいただけるのか、それがザアカイのように、言葉や行いによって外側に出てくるのです。


「神を信じるから。人の評価でなく、神が喜んでくださるから」

それが神の作品として生きるキリスト者の生き方、選択なのです。


神様は私たちに、救いを与えてくださり、欠けだらけの私たち一人一人の歩みをさらに支え続け、つくりかえ続けてくださる。ただ、この主に栄光がありますように。感謝します!


「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。第二コリンと3章18節 聖書」

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