祈祷会ではダニエル書の講解説教が続いています。今日は6章。異教の地、その社会において神に誠実に仕えたダニエルに、主がどのように助けを与えられたのか。みことばに聞きました。
❶「人間の知恵」と「神の知恵」の対決
前章で、ダニエルがベルシャツァル王に解き明かした神の預言の通り、ベルシャツァル王は高慢・傲慢であったがゆえに一夜にして殺され、バビロニア帝国はメディアの王ダレイオスによって統治されることになりました。
このダレイオス王は、国に有能な120人の太守を置き、その上にさらに彼らを束ねるための三人の優秀な大臣をおいて統治していこうとしました。この三人の中にダニエルがいました。
彼はすでに80歳となり、バビロンではすでに現役を退いていたようですが、このダレイオスの治世においてもう一度重職に就き、2節を見ると「他の大臣や太守よりも際立って秀でていた。」と書かれています。彼のうちには優れた霊が宿っていたがゆえに王は「任命して全国を治めさせようと思った。」とあります。
高齢者であり、外国人であるダニエル。そして彼が非常に優秀であったがゆえに他の大臣や太守たちは彼に嫉妬し、恨みを持つようになります。4節で「国政についてダニエルを訴える口実を見つけようとした」とあります。
人は、誰か優秀な人がいると妬みが出てくるのだと語られました。それらは罪深い性質によるもので、妬みはそれだけにとどまらず、カインとアベルを見てもわかりますが、殺人へと発展させてゆくほどになるのです。イエス様は心で思ったことは、実際に行ったのと同じなのだと言われましたが、心の中で妬み、その存在を消したいと思うことは、実際に行動したことと同じなのだと。メディアの高官たちも妬みの先に、無視し、外してゆこうという動きがあり、ダニエルがいなければ自分達が代わって重用されると考え、王に進言してゆくのです。
そのような大臣と太守たちの言葉を、権力を守りたいが故にダレイオス王は受け入れてダニエルを殺すことに繋がってゆく法令に、そうとは知らずに誘導されていきます。
ここから人間の知恵と神の知恵の対決が始まっていきます。
❷「いつものようにいつもの場所で」
誠実で真面目で信仰深いダニエル。責められるところのなかったダニエルを貶めるために彼らが目をつけたのは、ダニエルが信じる神とその信仰でした。
しかし、ダニエルはそのような法令を知っても、「いつものように、いつもの場所で」神に祈ったのです。しかも隠れてでなく、人目もはばからずに誰からも見えるところで、です。この30日間だけ黙って隠れて祈っていればいいや、と思わなかったのです。
堂々と、神への信仰を貫いた。
ダニエルのこの神への姿勢・祈りの姿はイエス様が3年半弟子たちと共に旅をした間のお姿を思い起こさせます。毎日毎日多忙を極め人々に尽して仕えてくださったイエス様。一緒にいるお弟子たちが、疲れて眠りこけてしまったとしても、イエス様だけは、いつも一人寂しい場所に行って神様の前に出てゆかれました。
いつもいつも祈り場へ行かれて、神様との交わりを何よりも大切にされていたのです。
ダニエルの祈っている姿を確認してから、見張っていたであろう太守や大臣たちは王の元へ急ぎます。ダレイオス王はこの時になって初めて、これらの文書の署名がダニエルへの罠であったことに気づくのです。気づくが、時すでに遅し。法令は王でも守らねばならない。王には何もすることはできなかった。
権力の頂点に立っても、いかようにもなってしまうのです。王はどうしたらいいのか、苦しみ、しかしできることはたったひとつ。自分の信じる神でなく、ダニエルの信じる神に祈ることでした。
最終的に人ができることは「祈り」なのだと語られました。私たちがしなければならないのは他の何ものでもない「祈り」一つなのです。
私たちが祈りをどのポジションに置くのか、それが大切なのだと語られました。
何をするにもまず「祈る」ということ。
色々してみてから、最後に祈るのでない。どうしようもないから祈るのでもない。神にまず「祈る」のだということ。危機的状況だから緊急連鎖祈祷会、ではないのです。常に日々、「祈り場にきて」どんな時にも「祈る」のです。
それをわかっているのに祈らず、急に降りかかってきた災いにあたふたして祈りましょうという姿勢を悔い改め、ダニエルが「いつものように」「いつもの場所で」主の前にひざまづいて祈っていたように祈るべきなのです。
あるイスラム教に改心したクリスチャンのことが語られました。この人は常日頃から「キリスト教は生ぬるい」と感じていたというのです。イスラム教は厳しく断食や日に何度も祈りの時間があり、何かをしていても一旦止まり祈ります。飛行機などでもトイレ付近や少しスペースのある場所で平伏して祈っている姿など見かけたことがありますが、こんな話も語られました。
ある方が、砂漠でラクダに乗る体験をしていた時に、太陽が照りつけるような厳しい場所で突然ラクダを引いていたガイドの人が「ちょっとここで止まる」という。何かと思ったらそのガイドをしていた人がイスラム教徒で、今、祈る時間であるから・・・とそんな体験をした人もいると聞きました。
常々クリスチャンは祈りもせず、なぜこんなに生ぬるいのかと感じていた人も、厳しく神に祈るイスラムへ改心してしまったのだということです。
私たちは、祈りについて甘い考えで、自由の中に甘んじて祈らない自分であることをもう一度考えさせられるのです。
ダニエルは日に三度祈った、とあります。ルカ書でイエス様が「失望しないでいつでも祈るべきであることを教えられた」という箇所があります。
私たちが、真実に神を頼り、祈り場へ、神の元へ向かおうとしているのか、それが問われていることを思いました。
❸神を恐れる者を神は守られる
このダニエルが獅子の中に入れられる様子が、書かれています。
ダニエルは「神は必ず守ってくださる」という確信を持っていました。
20節に夜明けに日が輝き出すとすぐ獅子の穴へ急いで行った王の姿があります。そして王は悲痛な声で呼びかけるのです。「生ける神のしもべダニエルよ。お前がいつも仕えている神は、お前を獅子から救うことができたか。」と。
普通なら返事がないところです。
ところがちゃんと返事があった。
「王よ。私の神が御使いを送り、獅子の口を塞いでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした。それは、神の前に私が潔白であることが認められたからです。・・」
神へのダニエルの信頼を神は裏切らず、神が彼を守ってくださった。
このシーンを想像すると感動で涙が出てきそうです。
ダニエル書3章においても王の命令で他の神々を拝むことをしなかったシャデラク・メシャク・アベデネゴが熱い炉の中に入れられました。彼らは言います。「私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。あなたの手からも救い出します。しかしたといそうでなくても、私たちは、あなたの神々に仕えません・・・」
その彼らが炉の中に入れられた時、そこには受肉前のキリストではと言われるもう一人の人が彼ら三人と共に歩かれ、彼らが出されたときも火の匂いすらしなかったとあります。
ダニエルが穴から引き上げられて、ダレイオス王の命令により、今度は、ダニエルを中傷したものたちが妻子と共に穴に入れられます。彼らが、穴の底に達しないうちに獅子によって噛み砕かれてしまいます。
なぜダニエルにそれが起こらなかったのか。神への信頼を神は尊ばれること。守られること。そして、神を侮るということがどんなに恐ろしいことかを思わされます。
❹神に誠実に仕える者を神は豊かに用いられる
ダレイオス王が全国民へダニエルの信仰と神の真実を書き送ったことが書かれています。28節において、ダニエルがこのメディアの王ダレイオスと、さらにその後のペルシャ王国のキュロス王に、高官として重用され、職務を全うする姿を見ます。
エステル記においても、神を信じる者を策略によって滅ぼそうとした者(ハマン)が殺され、やがて国の重鎮として国を治めるものとなってゆく姿を見ます。
聖書に出てくる悪人は非常な策略家ですが、聖書が一貫して語るのは、神を誠実に愛し、仕える者に神は必ず勝利を与えてくださる、というメッセージなのだと語られました。
ダニエルが「いつものように」「いつもの場所で」神に忠実に誠実に祈り、神との時間を聖別していたことを神は非常に喜び、彼の一生を祝福され守られ、豊かに用いられました。
祈り場を大切にし、祝福にあずかっていくものとされたいです。
「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちに喩えを話された。」ルカ書18章1節 聖書
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