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「神の認める信仰」*ルカ8章40〜48

  • nycc-jesus
  • 2022年3月7日
  • 読了時間: 6分

二宮は梅の花がどこも満開で、見上げると広い青空にピンクや白の花びらが映え、ため息をつくほど美しく、造り主なる主を崇めます。

春の訪れをあちらこちらで感じる祝福の日曜日。


みことばは「あなたの信仰があなたを救った」と題してルカ書よりメッセージ。

先週のゲラサ人の異邦の地より、ガリラヤ湖の西側に戻ってこられたイエス様。

そこでは、イスラエルの人々がイエス様を待ち侘びていました。イエス様が行ってしまわれたと残念に思いつつも、異邦人の地ゆえに追いかけることはせず、ずっと待っていた人々はイエス様を大歓迎で迎えます。そしてそこへ真っ先にやってきたのが、40節に登場する当時の会堂管理者ヤイロという人です。記事を読みますと、彼の12歳ぐらいの娘は病にかかり死にかけていたとあります。彼はデカポリスへ行ってしまわれたイエス様を必死の思いで待ち続けていたのかもしれません。そんなヤイロがイエス様に平伏して、そしてやっとの思いで家に案内しお連れする・・・という時に、それを足止めするかのような情景が描かれている、それが今日の箇所です。


❶イエスへの信仰を行動で表した女性

43節に、この女性についての説明があります。彼女は12年間、長血を患い医者たちに財産の全てを費やしたのに誰にも治してもらえなかった、と書かれています。

女性特有の病であったことでしょう。旧約の律法の中には、このように血が止まらない状態にある女性には「汚れ」という言葉が向けられており、祭司に「あなたは汚れている」と宣告されると、伝染を恐れるが故に隔離され、人々の間に住めなくなる、そのような状況に追いやられてしまっていたのだと語られました。隔離された人がコミュニティに戻るためには、祭司に見せて完治を宣言してもらう必要もありました。


このような背景を考えると、この人混みの中に出てきた彼女の行動は、禁じられていたものであり、聖い者でなく、汚れたままの姿でイエス様の衣のふさに手を伸ばしたということになります。

彼女はそのような掟を破ってまでも、律法を侵してまでも「イエス様のところに行きたい」「癒されたい」と強い気持ちに押し出されて主の元にやってきたのでした。


48節には、この女性が癒されたのは「彼女の信仰」だとイエス様が言われています。イエス様を信じ、信頼した。それをイエス様は「信仰」と認められたのです。


この女性の話はヤイロの家に向かわれる記事に挟み込まれるように載せられている記事です。一刻でも早く、苦しみの中にある娘のところにイエス様をお連れしたい。そんな思いのヤイロにとっては、足止めを食らうような邪魔が入ってしまったというところです。

しかし、聖書はここで、私たちに「信仰」について考えさせます。

このヤイロや、嵐のガリラヤ湖上での弟子たちの姿にしても、そこにイエス様は信仰を見出すことができなかったのです。「あなた方の信仰はどこにあるのですか。」と問われたイエス様。(ルカ8章25節)ヤイロにしても、どうして「お言葉一つで娘は癒されます。お言葉をください。」ということができなかったのか。

イエス様のお言葉・存在でなく、自分の方法に立って行動して下さらなければ!とにかくイエス様きてください。娘に触れてください。というヤイロの姿に信仰を見ることはできないのです。



そこにこの「長血の女」が現れた。彼女がイエス様に「あなたの信仰があなたを救った」と言われたことはとても興味深いことです。

イエス様は「信仰を働かせなさい。」と常に私たちに語りかけられておられるのです。


❷女性の上に起こった癒しから学ぶべきこと

44節に、イエス様の衣に触れた時に、彼女自身がすぐに自分の変化に気づいたことが書かれています。「すると、ただちに出血が止まった。」と。12年間というもの、ずっと止まることのなかった血が一瞬にして、衣に触った途端止まったのです。

癒されたことがわかった瞬間、祈っていたことが叶えられた瞬間、それは喜びですが、ここにおいて喜びは描かれていないのです。イエス様はこの女性がそっと去ってゆくことをお許しにならなかった。そして、大勢の群衆が押し寄せる中で、「わたしに触ったのは誰ですか。」と言われるのです。


46節のお言葉を読むと、イエス様は信仰によって近づいてくる人のタッチをよく理解され、その願い事を受け止めてくださるということを覚えます。誰も彼もがただ触れたというのではない。信仰を持ってわたしに触った、わたしのもとに手を伸ばした人がいると彼女の気持ちをよくご存知で癒してくださった。


この女性を見るときに、彼女は人々やイエス様の目を恐れ、癒されたら、人々に紛れてイエス様にお礼を言うこともなくさっと去ろうとした、そこにどんな信仰があるのだろうとも思うかもしれません。しかし、主はこの信仰を受け止められ、一見都合の良い人にも見えるかもしれなくとも、その信仰が浅いとか、どうとか言われることなく、イエス様に近づき信仰を表す時にそれを受け止めてくださる方であることを知るのです。


また、ここで、イエス様がそっと去ろうとした女性と「人格的な交わり」を持とうとされたということが語られました。あえて誰が触ったか、その人を浮き彫りにされ、なんで癒されたのか・救われたのかイエス様から聞く必要があった。ふさに触ったから治ったのではなく、信仰を持ったから癒され、救われたのだと宣言してくださったのです。


❸私たちの信仰はどうか。

私たちは生まれながらにして神と敵対していた、そのような存在です。しかしそのような私にイエスキリストを通して救いがもたらされ、神との平和な関係が与えられた。

この48節のイエス様のお言葉「安心して行きなさい。」という言葉は、元々の言葉では「シャローム」=「平和(神との平和)の中で生きなさい」という意味があるそうです。



この迫り来る群衆の中で、イエス様に伸ばされた手は多くあったかもしれません。しかし、イエス様がお感じになった手はこの一つだけ。この人の手と言われたのは一人だけだったのです。

私たちも信仰の手を伸ばしているだろうか。それはイエス様が受けとめてくださっている手だろうか。主の御心にかなうものを主は聞いてくださる。そこに主が信仰を見出してくださるから。

神様!と言っているその中に、信仰を見出して頂けるだろうか。そういう手を持ってイエス様に触れようとしているだろうか・・・。


講壇から問いかけられるその言葉に重なるように思い出したのは、今週このウクライナ戦争によって心痛みメッセージを送ってくださった方の言葉でした。

礼拝後、教会のメンバーの皆さんに分かち合うことができましたが、そのメッセージの中にこんな言葉がありました。

「もしあなたと争っている人がいるなら、愛に強められてその人に『あなたのためにどう祈れるか』と聞いてください。私たちは自分の祈りが世界を変えられると信じています。その通りです。しかしもし祈りが人格的なものでなければ、それはあなたを全く変えることはできません。人格的に祈るならば、それはあなたの心を変え、あなたが祈っている相手の心をも変えるのです。イエスが敵のために祈るように言われたのはそのためです。・・・」


世界のために、日本のために祈らされています。

その祈りが「人格的な祈り」でなければならないということ。「人格的な祈り」とは?

キリストとの人格的な交わり。祈りを通して開かれてゆく世界・・・。

イエス様の衣の裾にでも触れれば、必ず癒される、そのように思って一心に主に近づいてゆく信仰。真実であられ、お優しい主に今週も一つ心で、信仰を持って手を伸ばし、祈るときとされたいと思います。


「苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった。」詩篇120篇1節



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