梅雨が明けていよいよ夏本番といったところでしょうか。セミの大合唱だなー♡なんて思っていたら、もうセミの抜け殻も発見し‼️めぐる季節の速さに驚かされます。礼拝前の日曜学校の時間も子どもたちの元気な声でスタート。今朝は「みんなで協力UFOキャッチャーゲーム!」でわいわい競い合いました。お話は今日の礼拝のお話をよりわかりやすくマキセンセイから聞きました。
礼拝は「あなたのために一つの家を」と題して第二サムエル記7章より。
神様が与えてくださった三つの大きな契約(約束)が聖書に記されています。
1️⃣アブラハム契約ー創世記の17章に記されています。
2️⃣モーセ契約ーアブラハムから500年後のモーセに対してシナイ山においての約束。
3️⃣ダビデ契約ーダビデに対してダビデの家系から救い主キリストが生まれキリストを通して
永遠のいのちの恵みに預かる私たちにも及ぶ約束。
今日はこのダビデ契約の箇所です。
❶「預言者ナタン」の過ち
ダビデはエルサレムに神殿を建てました。それは杉材を使った立派な宮殿でした。
ダビデは、この宮殿に住み考えました。「自分がこんな素晴らしいところに住んでいるのに、この世界の基であられる神様のためには、あのような幕屋で良いのだろうか」と。
幕屋は、内側は黄金で神様の威光を表す素晴らしいものでしたが、外側はどうかというと、ジュゴンという動物の皮で覆われていて、一見とてもみすぼらしく、ダビデはそのようなままで良いのかと考えたのでしょう。
このダビデの申し出に対して、3節で預言者ナタンは「そうですね。あなたの提案・信仰は素晴らしい。ぜひ建てましょう」と返答してしまうのです。
その夜、神様は幻を通してこのダビデの言葉に対して、預言者ナタンに語られる事になります。
ここで、非常に大切なことが欠落していたことに気づかされます。
ダビデはいつも主に伺い、祈る人でした。
このサムエル記に一貫して、一つ流れている大切なテーマは、実に「祈り」です。
ハンナの祈りに対して主は答え、サムエルを与え、サムエルの祈りに答え、サウルからダビデへとその流れの中で、彼らは祈りを通して、主の御心を求め、知り、従って行ったのです。ダビデはその人生で、150篇もの祈り、賛美を主に捧げそれが詩篇となりました。
祈り続けた生涯でした。ところが。ここには、ダビデが神様に祈ったということが記されていないのです。
彼の提案は非常に良いものでした。「私だけが良い所に住んでいて良いものだろうか。神様にもっと素晴らしいものを捧げたい」と。相談を受けたナタンも特に祈ることなく、二つ返事で、このダビデの申し出に賛同してしまいます。
ここから「心に思い立った良いことが全て神から来たものとは限らないのだ」と語られました。
私たちは、良いことは神から来て、悪いことは人から来たと考えやすいのです。
しかし、決して良いことが神の御心に沿っているとは限らない、ということを覚えておかねばなりません。
神の箱が安置されている天幕はダビデの目から見ればみすぼらしいものでした。かつて荒野を旅したイスラエルの民たちのために、それは可動型で簡素なつくりであったのです。しかし、それは「神が命じられた型」であったということを忘れてはなりません。
事細かな所に至るまで神の御心にかなって、それに沿ってつくられたものであったからです。そのことをダビデもナタンも見ていなかったのです。
私たちの心はどこを見ているか。良いと思うことが神の命に沿っているとは限らないことを覚えておくことが大切なのだと語られました。
まず「神の前に祈ったのか」それゆえの決断なのか。「これは神のためなのだから、やるべきだ。それが何か問題か?」と私たちは言いやすいのです。しかし、それが本当に神の御心にかなっているのか検証することが重要です。
決断は「祈り」無くしてはないということ。神様に「御心を示してください」と祈り求めてゆくことが大切なのです。
❷「すべてのことは神様の側から来ている。」
このようなダビデの申し出に対して、神様はナタンに幻を通して拒否されました。
ダビデは王宮育ちではなく、一介の羊飼いの少年でした。
そのダビデを王として召し出されたのは「神様」でした。サウルに追われている時も、苦しい荒野においてもいつもダビデと共にいて、どこにいても勝利を与えてくださったのも「神様」でした。ダビデにエルサレムを与えてくださりダビデの町とされたのも「神様」です。
いつも、神ご自身がダビデの人生の主権を握られ導いてくださったのです。
すべては「人間から」ではなく「神から」出ていたのです。神の御心が時を経て、一つ一つ実現して行ったのでした。
神はダビデの心をよくご存知でいてくださいました。神を愛して敬っているが故に、神のために立派な神殿を建てたかった。しかし、そんなダビデの心の中には「自分は神のために何かできるんだ!」という思いがあったのかもしれない、そう語られました。
「神のために」。響きは良いです。しかし、神様は決して私に頼らねばならない方ではないのです。ピリピ2章13節にはこのようなみことばがあります。
「神は御心のままに、あなたがたのうちに働いて、志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」と。
すべてのことは「私から」発するのではなく、「神から」発する。そこに、自分自身を乗せてゆくということ。それが私たちなのだということ。神のみことばに従い、神に頼るのが私たちなのです。
神様は、神のために建てたいと申し出たダビデに「No」と返事され、そして、神様の方が「ダビデのために一つの家をつくる」と言われました。これは建物のことではなく、ダビデを祝福し、子孫を祝福し、やがてこのダビデの家系から神の子キリストが生まれるということを預言されるお言葉、「ダビデ契約」となったものでした。
この契約に関して、イザヤ書9章6〜7節で、ソロモンの死後、後に出現したイザヤがはっきりとイエスキリストの誕生を預言しているのです。
「一人のみどりごが私たちのために生まれる・・・ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」
そして、この約束は今から約2000年前に成就しました。キリスト・イエス様が誕生してくださったのです。
7章14節において、神様は「わたしの恵みはわたしがあなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない」とも言われました。
つまり、神様はサウルとの間には契約は結ばれず、ダビデとの間に永遠の契約を結ばれたのです。神様はイエスキリストをその先に見ておられたのです。
そして、神様は人間とは違い、語られた約束を反故にする事を決してなさらない。これは非常に大切な事だと語られました。なぜなら、それは私たちの「救い」に関わる事だからです。パウロが「私は惨めな人間です」といったように私たちは罪を犯し続ける惨めな存在です。しかし、悔い改め、主にすがる者を主は見捨てず、私たちの行いや思いではなく、神が事を起こしてくださり、救いを与えてくださるのです。罪の現実を神様は悲しまれますが、弱い私たちを憐れみ、キリストの十字架を通して贖い、できない現実でもなお「ご自分の約束」ゆえに私たちを確実に救いに導いてくださる。私たちはそういう約束をいただいているのだという事を知るのです。
❸「私たちの祈りの根拠は何か」
18節以降はダビデの感謝・感動が次第に賛美へと変えられていっています。
「なぜ、このような者にあなたは目を留め、見捨てることなく、ここまでしてくださるのでしょうか」と。
「どんな宗教でも救われるか」という本の著者ハロルド・ネットランド牧師が言われたそうです。「この世には八百万の神々と呼ばれるものが祀られ、いいことをいうけれども、キリストの神と同じことを言える存在は他にはいない」と。
このような神は他にはいない。そしてその「神の子」とされる特権を与えていただけるということ。
どんなに私たちが罪深く、情けなくても決して諦めず、見捨てず、確実に導いてくださる愛のお方。
27節でダビデは、言います。「イスラエルの神、万軍の主よ。あなたはこのしもべの耳を開き、『わたしがあなたのために一つの家を建てる』と言われました。それゆえ、このしもべは、この祈りをあなたに祈る勇気を得たのです。」
祈る勇気。。。私たちが愛したからでなく、まず神が愛してくださった。この大きな愛を持って約束してくださり、救ってくださった。だからこそ、私たちは祈り、御心を求めることができる。そこにおいていただけるということはなんと素晴らしいことなのだ・・・と。
私たちは、この神様に信仰と感謝をもって委ねお従いする道を歩ませていただけるのです。
やがてイエス様はもう一度来られると聖書は約束しています。必ず守られる神様の約束。私たちは、疑わず呟かず、信じて主を仰ぎ、神の約束の成就を待ち望みたいと願うのです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。ヨハネの手紙第一4章10節 聖書」
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