メッセージはローマ書9章6〜13節より「約束の子ども」と題してメッセージでした。
❶神の祝福は真のイスラエルにもたらされる。
ローマ書2章28節には「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。」とあります。
ここで二つの例が挙げられました。
一つは「イサクとイシュマエル」です。
創世記において、16章において書かれている記事です。
アブラハムは高齢になるまで、子が与えられなかった。そのアブラハムに神様は、カナンの地荒野の地を見せ「これはあなたと子孫のもの。あなたの子孫はこの浜辺の砂のようになる。」と言われました。
状況から見たら高齢となったアブラハムにとって、これは難しいことでしたが、神様はこの約束を語られ、アブラハムはその約束を「信じます。」とそれが彼の義と認められた、とあります。(創世記15章6節)
しかし、何年経っても、その約束の子が与えられない。
妻のサラは考えます。約束のために、若い女奴隷ハガルをそばめとしてアブラムにと。
そして誕生したのがイシュマエル。二人はこれが約束の子だと思った。しかし、神様は
「イシュマエルはわたしが選んだものではない。」そう言われ、サラを通して、イサクを二人に与えられた。なぜか。
8節に「肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。」とあります。イシュマエルが神の約束を待てない間に与えられた子であり、アブラハムの肉の子孫が祝福を受けるというのでなく、もうその胎に子を宿すなど不可能とも言える高齢のサラにより人間の方法で生まれてきたのではないイサクが霊の子孫として主の祝福と選びのうちに与えられたということを知るのです。
イサクとイシュマエルの違いは、神の約束があったのか、なかったのかということです。
二つ目は、「エサウとヤコブ」です。
二人は両親が同じ、生まれるタイミングも同じ双子の兄弟でした。
しかし、神様はこの二人に対しても、二人が母の胎にいる時からすでに祝福する子と祝福しない子を分けられていました。
12節に「兄が弟に仕える」とあります。
弟の方が少し多く祝福を受けると言うのではない。片方は真のイスラエル。もう片方は違うと言われたのです。
一方は神の救いに預かるという意味で優り、もう一方は神の救いに預かれないという意味で劣る。神が生まれてから選ばれるのではなく。生まれてくる前に、もう決めておられる。それは行いによらず、ただ御心によって決められたと言うこと。
イスラエルから出るものが皆イスラエルなのではなく、自分はイスラエルなのだと外面的なものに頼ること、また少し前に生まれたのだからと、そのようなことは神の前に誇れることではないと言うことを知らされます。
「誇るものは主を誇れ」私たちは、この点に関しては自分は人よりも優れていると家柄・技能や資格、役職を誇り、プライドを持ちます。しかし、神の前に私たちは何を「誇り」としてゆくべきなのか。私を作り、生かし、用いようとしてくださる「主」を誇り、主に頼りなさいとそのように教えられます。
❷神の選びに感謝しつつ歩みましょう。
13節に「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とあります。(マラキ書1章2節)
神の約束は、肉のイスラエルと結ばれず、真のイスラエルと結ばれたと言うことを知ります。
神の主権によって、ヤコブ(神の民イスラエル)が選ばれ、エサウは「約束の子」の範囲に入らないものとされました。このような神の視点、選びをパウロは語っていきます。
パウロは旧約の達人でパリサイ派中のパリサイ人でした。旧約聖書を熱心に学び精通した彼が自分の考えを展開して語ったのではなく、旧約のその知識の中から主の視点と選びを語っています。
「約束の子」と言うことを見るときに、「私が約束の子どもかどうか」それは天の御国に入るまでわからないと語られました。つまり、神のみことばをしっかりと握り確信を頂いて、主の喜ばれるあゆみを成しているかどうか、それは約束の一つのしるしでもあると言うことであり、「自分はクリスチャンです。」と言いつつも、実際の歩みは自分勝手な解釈のもとで生活を送っているならば、私たちは本当に天に入るその時まで神の約束の子であるのかそれは誰にも分からないということなのです。
福音書に「種まきのたとえ話」があります。みことばの種が良い地(心)にまかれて最後まで良い実を結んでいくのか。あるいは良い地(心)ではなく、その地(心)が道端や岩地といばらの地へと変わってしまい途中で終わってしまうのか。そのような信仰は本物でない、偽物の信仰からは本物の実は結ばれない、と言うことです。
さらに、私の信仰は、私の決心からではなく、救ってくださる神の選びであり、私が生まれる前から救いへと召してくださっていたからと受け止めて感謝してゆくことを示されました。
神様からいただいたこのような恵みを終わりに至るまでしっかりと守ってゆくことの大切さ。神様からの愛を十分に受け、神様の忌み嫌うことを行わず、救ってくださった神を信じると言うところにしっかりと立ち続けると言うこと。
ヨハネ6章44節にはこのように書かれています。
「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしの元にくることはできません。わたしは、その人を終わりの日によみがえらせます。」と。
メッセージの中で「レフトビハインド」という本について少し出てきました。
聖書に書かれてある通りに再臨の日にキリスト者たちが一瞬にして「携挙」されるが、そうでない人々が残るということを想像して書かれた小説です。本の存在は知っていましたが読むこともなく、映画も観ていませんでした。先週この映画を観る機会があり、改めて「選び」について考えさせられました。個人的にはストーリーよりも、「携挙の瞬間」について考える良い機会となりました。映画では、家族の中で信仰を持つ母親と弟が携挙して消えます。しかし母の言葉に耳を傾けなかった姉と父は取り残されてしまう。また、あろうことか教会の牧師が一人、会堂で残されていた。「聖書は空で語れるが、信じていなかった・・・」とその牧師は告白するのです。アメリカ中が、いや世界中がこの携挙に驚きパニックとなり、残された人々は次第に、この時いなくなった人々がキリストを信じるクリスチャンだったと知る・・・といった内容です。
私たちは本当に自分が救われているのか。自分に与えられた信仰、また自らの歩みを吟味すること、また、神を深く信頼し、神の御心に従う歩みというものを今一度省察し、神様に希望をおいて歩むことを真剣に考える必要があるのだと示されました。
また、この神様について、私たちが宣べ伝えてゆくことの使命について改めて考えさせられました。
「信じたことのない方をどのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方をどのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。 ローマ10章14節 聖書」
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