ルカ6章46節〜49節より「しっかり建てられた家」と題してメッセージ。
ある説教者は「このたとえは平地の説教の中で一番厳しい説教では?そしてここにイエス様が本当に言いたかったことが集約されているのでは?」と言われたそうです。
❶聞いたならばそれを行うべきである。
イエス様は、「主よ。主よ」とご自分に叫ぶ人に対して話をされました。イエス様のことを「主よ」と呼ぶのは単なる呼称や敬称でなく、信仰から出てくる言葉です。
ローマ書10章9節に「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神様はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。」とあります。
「主よ」と呼ぶことと、救いは直結しており、そこに信仰を見ます。
「主」という言葉の元々の意味は「力」を表す言葉であり、それは「有力者・財産を持つ者・権力者」に用いられるようになり、さらに、全能者に対する称号へと変化していきました。ローマ皇帝に対しても、神とか主と呼ぶようになったのです。
それでも一般には、当時の奴隷制度がある社会において、奴隷の所有者である主人を指す言葉として広く用いられたようです。
パウロは自分を「主のしもべ」と言いました。「私は主であるイエス様の奴隷である」という告白です。奴隷とは、主人に買い取られたものであり、主人の主権を認め、主人のために主人に従って生きるものです。イエスさまとの関係に置き換えるなら、イエス様のために生きるという決意があるから「主」と呼ぶのです。
イエス様は「主よ、主よ」と真剣に告白する人に向かって、たとえそうであっても、その告白に伴う行動が見られないならそれは、「信仰の欺瞞」であると言われています。
この平地の説教において、イエス様は最後にこのことを取り扱われました。マタイの山上の説教では信仰の欺瞞について、「そのような人は天の御国に入れない」と言われたほどでし
た。
創世記のアダムとエバを見るときに、ここからすでに、主に従えない人間の罪が続いていることを改めて教えられます。
アダムとエバはエデンの園において、園のどんな木からも食べて良い。しかし中央の木の実だけはとってはだめだと、それを守りなさいと命令を受けたにもかかわらず、それに従うことができませんでした。それ以来、人の歴史はずっとこの繰り返しであり、神の命令を聞きながらも従えない、神の主権よりも、奴隷としてよりも、自分勝手にと、生きてきたのです。ユダヤ人は約束のカナンの地から国を失い、流浪の民となり全世界に散らされました。
このことは現代の私たちにも同じように問われています。
日本でのキリスト教信仰はマイナーなものです。しかし、ミッションスクールは人気であり、結婚式もキリスト教でという方も多いのです。
これは、キリスト教の語る、愛・癒し・励まし・慰め・博愛といった言葉、倫理観に好感を持つ人々が多いからなのではともいえます。今はキリスト教ではないけれど、いいなと思っている人が多いということでもあります。しかし、なぜ信仰を持つ人が少ないのか。
それは倫理観は素晴らしいけれど、いざ、そこに立つのは難しい。ということなのではないでしょうか。
マザーテレサの生き方や思想に共感する人も大勢います。しかし、あなたもマザーテレサのように生きようとしますかと問われると、それは難しいという人がほとんどのように思います。
みことばを聞いてそれに感動するということは良いことですが、聞くだけで、もしそれを実行・実践しないならば、行いに繋がっていかないのなら、私たちの姿は神様が意図されているものではないということです。
❷聞いたみことばを行うか。行わないということが重大な結果を招くことになる。
48節でイエス様は
みことばを聞いて行う人=家を建てるときに土台に注意する人
と言われました。
この土台に気をつけた人は洪水が起こるかもしれないと思い、どうしたら立ち続けることができるか考え、土台をしっかり建てた賢い人でありました。
しかし49節に出てくる人は、土台をきちんと据えなかった。基礎工事をせずいきなり、地面の上に家を建てました。マタイにおいてはこのような人を「愚かな人」とよんでいます。その愚かさとは、後々何が起こってくるかを考えず目先のことに追われ、短時間で家を仕上げようとしたことにあります。
三匹のこぶた🐷のお話が出てきました☺️
上の二匹のお兄さんは、さっさと藁などで家を建て、三番目のこぶたがレンガで一生懸命家を建ててる最中も、まだかい!ぐず!呑気だね!とからかいます。しかし、オオカミに襲われたときに、この三匹を守ってくれたのは、三番目のこぶたが建てたこの家でした。
どういう基礎工事をしたかは、建ってしまえば誰にもわからないし、建物を見て「この基礎はしっかりしているな」とは言えません。
同じ家でも、二つの種類があり、
土台をちゃんと据えた家と、土台を据えていない家があるように、
「主よ。主よ」と呼ぶ信仰者の中にも二種類の人がいて
彼らは表からは見分けがつきません。
二人とも、洗礼を受け、集会・礼拝に出席し、分かち合い、祈り、イエスを主と告白しています。しかし見えないところで、決定的な違いがあり、
一人は聞いた時に、どう適応しようかと考えるが
もう一人は、聞くと行うは別物という理解で終わる
信仰は信仰。しかし、生活は生活、と。職場は職場、そして、教会は教会、と。
普段見た目では分からない。しかしこの違いが明らかになる時が来る、それが「洪水」の時であるというのです。
何かが起こった時に、その信仰が、行為や言動として出てくる。その「洪水」とは
大病を患うことであるかもしれません。愛する人を失うということかもしれません。
しかし、イエス様はこの語っておられる先に、ノアの日に洪水によってさばきがされたように、土台のない信仰は最後のさばきの時に滅びる、と教えられたのです。
神様は、私たちの目に見えないところにまで、さばきの対象とされるのです。
とても恐ろしいことだと思います。信仰者は皆、「さばかれることはない、天国に入れる」と信じています。しかし、イエス様がここで語られているのは、キリスト者にも本物と偽物の2種類の信仰者がおり、最後は救いと滅びに分けられる。いったん信じたら、あとはどういう歩みをしていても良いということではなく、しっかりとした土台を据えることをイエス様が求められているということなのです。
❸しっかりとした土台を築きましょう。
土台とは何か。
土台のない信仰=みことばを聞いて聞きっぱなしの人。
土台のある信仰=聞いてそれを真剣に行おうとする人。
ヤコブは「みことばを実行する人になりなさい。聞くだけのものであってはならない」と語っています。
ウエストミンスター信仰告白は、福音的な教会が受け止めている信仰告白です。
↑(抜けているところは誤字でして、「信仰と愛を持って」となります。)
ここにおいても、みことばを聞いただけではダメだとはっきりと語られ、みことばを受け入れ、蓄え、実践する、それがみことばが救いに有効となるための聞き方であると言われています。
ルカ8章ではイエス様は弟子たちに向かって「聞き方に注意しなさい」と言われました。
それは、耳に入ってくる御言葉をただ聞きなさいということではなく、語られるみことばを注意深く吟味し、自分に何が求められているのかを知り、行動しなさい、そういう意味で注意深く聞く必要があると言われたのです。
聞くだけのものにならないで、みことばを実践する歩みの大切さを深く教えられたことでした。
「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけのものであってはいけません。ヤコブ1章22節 聖書」
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