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「キリストとの出会い」ルカ2章25〜38節

更新日:7月19日



礼拝のみことばは、ルカの福音書2章25節から38節より「救い主の誕生を待ち望む」と題してメッセージ。

 🟢「聖霊なる神の導きによってシメオンとアンナはイエスさまに出会った。」

  羊飼いや東方の博士たちの記述になくて、シメオンとアンナのところにあるもの。

 それは、彼らが聖霊の導きによって、イエス様と出会い拝し、祝福したことです。

 羊飼いは天使によって、東方の占術師たちは星によって、イエス様に導かれましたが

 シメオンとアンナは聖霊によってイエスさまとの出会いに導かれました。

  彼らは特別な教職者、パリサイ人や祭司長でもなく、一介の信徒でした。聖書には「正しい、敬虔な人で、聖霊が彼の上におられた」と書かれています。


 ローマ8章には9節には「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の内にではなく、御霊の内にいるのです。」と書かれています。

 私たちもまた、シメオンと同じように、私たちの内に御霊なる方がおられることを確信することができ、聖霊さまによって導かれることを覚えたいと思います。イエスさまと出会い

聖霊様の助けによって、神の御心に沿う歩みをすることができるのです。


 アンナについては宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた(37節)と

書かれています。彼女とて、特別な役職についていた訳ではなく、84歳という高齢にありましたが、いつも、神のみそば近くにいようと宮に仕えていたのです。


 聖霊に満たされ、導かれそれぞれ生活するシメオンとアンナが神の導きによって幼な子イエスさまと出会ったこと。長い時を、熱心に神に仕え続け、聖霊により出会うことができた二人。きっと宮には子どもを連れている人々が多くいたことでしょう。その中で、間違いなく確かにイエス様を見出したということは驚きであり、主の格別の導きを思わずにはいられません。


私たちクリスチャン、一人一人も、それぞれ、いろんな方法でキリストに出会いました。

そして、それは決して、偶然でもたまたま出会えたということでもなくて、この万物の創造主神様が、全てを計画してくださり、最善のタイミングでキリストに出会えるようにしてくださったのだと、改めて感動を覚えました。

 聖書には誰も聖霊によるのでなければ、イエスを主と告白できないと書かれてあります。

このクリスマス、楽しいひとときですがそれと共に、本当の意味で、聖霊に導かれているからこそ、祝うべき方を祝うことができるという恵みにもう一度心を向けたいと思いました。


🟢「シメオンとアンナはイエスに何を見たのか。」

25節にはシメオンが「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。」と。そして

38節にはアンナが「エルサレムの贖いを待ち望んでいた。」と書かれています。


イエス様がお生まれになった時代、政治的には、イスラエル民族全体は非道な苦しみに置かれていました。当時のイスラエルはローマの支配下にあり、ローマ皇帝が実質的な支配権を持っており、パリサイ人や祭司長はサンヘドリンという議会において話し合いはできましたが、そこにおいてはローマの許可を得なければ何一つ決定することはできませんでした。

 

イスラエルの人々は選びの民なのに、神を神としない国に支配され、皇帝を神とすること、皇帝崇拝を強要され、税金もローマの宮のためにもっていかれる状態でした。聖書に出てくるザアカイやマタイも取税人でしたが、まさにこのような形で人々は税金を払い、また搾取する者たちもおり、全ての仕事においても、結局は主人はローマに抑えられ、朝から晩まで苦しい働きがそこにあったのです。私たちこそは勝利者なのになぜという悶々とした思いを持って人々は暮らしていました。


また宗教的には、旧約聖書に出てくるマラキという預言者を最後にして、イスラエルには500年から600年もの間、預言者が遣わされませんでした。沈黙時代です。イスラエルにとっては暗黒の時代でした。


「神はこう言われる」と語り人々に神の言葉を語るのが預言者ですが、その預言者が与えられませんでした。ある面においては、人々が旧約聖書に心を留めるようになり、神の御心を知るために熱心になって聖書研究が発展していったことは良いことでした。しかし、それにより多くの学派が作られていったのも事実で、サドカイ派やパリサイ人など、何十人、何百人もの学者がそれぞれに違うことを言う、いわば彷徨える暗黒の日々だったのです。


こうした背景を見たときに、その暗黒に光が生まれたというヨハネの福音書1章4〜5節

「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝てなかった。」のみことばとともにシメオンとアンナの、ついに救い主が

イスラエルの慰めである神の御救いとエルサレムの贖いが与えられた!という喜びに理解が与えられます。


シメオンとアンナは、真の「慰め」と「贖い」を待ち望んでいました。

慰めというのは、ちょっとの言葉や表面的なことではなく、根本である部分から救われるのでなければ、真に慰めを受けることはできない、つまり「救い」が与えられなければ得る事はできません。


私たちの魂も傷つき、痛みます。生まれながらにして持てる罪ゆえに、社会に、人間関係の中に悩みがあります。罪に解決を得なければ、真の慰めは得られず、根本からそれを慰め癒すことのできるお方は、イエスキリストお一人です。


福音書の中で、イエスさまは、傷つき傷んだ人々に多く出会ってくださいましたが、その中で、ただ病気を癒すのではなく、「あなたの罪は赦された」と言われました。律法学者やパリサイ人に「何の権威でそのようなことをするのだ」と言われたとしても、例えば中風の人には

「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたに知らせるために。」(マタイ9章5、6節)そして癒されたのです。人は病を癒されても死を迎えます。イエス様は表面的なものだけを解決されたのでなく、根本的な罪に触れてくださり、赦しを宣言してから癒されたのです。


使徒4章12節には

「この方以外には誰によっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないのです。」とあります。聖書はイエス様以外に救いはないと語っているのです。


シメオンとアンナがどんなに感動して、この恵みを告白しているか、改めて、みことばをじっくりと読んだことでした。

楽しいクリスマスイベントもありますが、しかし私たちが心を置くべきはこの「真の慰め」を得たこと、「真の救い」を与えることのできるイエスさまの誕生をいただいたということ

このイエス様が出会ってくださったということに感謝することなのだと示され感謝。


このクリスマスには自殺者が多いといわれます。一時的に賑やかな街の中で、ひっそりと孤独を感じて死を選ぶ人々がいます。しかし、本当のクリスマスの恵み、この小さな赤ちゃんとなって生まれてくださった「救い主」に目を上げる時に、イエス様が真の慰め主であり、

孤独や悲しみにもがく私たち一人一人に解決を与えてくださるということを知るのです。

その主を求め、感謝し、共に集うのが教会です。一人でも多くの方に、「真の慰め」との出会いがありますように祈ります。


「あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」 ルカ2章30〜32節    聖書





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