今日の礼拝は、出エジプト記15章22節から27節からのメッセージでした。
「水戸黄門」のテーマソングをご存知ですか。「人生、楽ありゃ苦もあるさ」
人生いつも楽しいことばかりならいいなと思う、しかし現実はそうもいきません。
楽しみや幸せを、お金や異性、家庭に求めるようになったり
あるいは教会にくれば幸せになるのでしょうか?
聖書には「キリストイエスによって、敬虔に生きようと思えば・・・迫害に遭います。」と記されています。
私たちは、自分の人生に起こることについてどのように捉えた良いのでしょう。神様はどのように関わってくださっているのでしょうか。
1・神様は荒野を用いて人の信仰を訓練されるお方。
200万人はいたであろうイスラエルの民が、エジプトを出てから紅海を渡り、神様の
なさった御業を心から賛美した矢先、飲み水がないということに直面し荒野で、叫びます。私たちは窮地に置かれたときこそ、本当に神様を求めるようになります。
不平不満をいってしまう弱さとともに、困窮した時にこそ真剣に主を求めるようになるのです。そして神さまは憐み深くその祈りに応えてくださるお方なのです。
2・一本の木を投げることの意味。
モーセは、神様から言われたことの意味が分からずとも従いました。ここに大きな意味があります。
ナアマンもそう。またカナの婚礼の時の水を汲んだ者たちもそう。
なぜか分からなくとも主に言われたら従ったのです。
この「一本の木」は、原語では、律法すなわち「聖書」を表す言葉です。
「主の言葉」を喜びとし、・・・(詩篇1篇より)神の言葉に聞き従うものは幸いです。
3・神はエリムを用意されている。
民はマラの泉のあと、エリムの泉に導かれました。
そこはマラとは違い、十分な良い水があり200万近くの民が宿営できるほどのところでした。
神様は「今はこんな泉だけれど、あとで、すばらしいエリムという泉があるよ」と前もって教えられませんでした。
たとえば、アブラハムもイサクを捧げよといわれたときにそうでした。
アブラハムはそばに牡羊がひっかかっていたなどとは知りませんでした。
ただ、神さまの言われることに集中してお従いしたときに、アブラハムの刀をとめてそこに牡羊をちゃんと用意しておられたことに気づかせてくださったのです。
神様は、訓練の時を無駄にされず、さらに、ちゃんと用意してくださっている方なのですね♡
「まことにその人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。
その人は水路のそばに植った木のようだ。時が来ると実がなりその葉は枯れない。
その人は何をしても栄える。詩篇1篇3節 聖書」
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