礼拝は第一サムエル記3章より「主よ、お話しください」と題してメッセージ。
❶どのように神の言葉に向き合っているか。
3章は、神が沈黙されたイスラエルの暗黒の時代から始まります。
1節「その頃、主の言葉はまれにしかなく、幻も示されなかった。」とあります。
イスラエルに王がなく、皆が「自分が良いと思えること」を行っていた(士師記21章25節)時代です。皆が、神の基準でなく、自分の良いと思うことを基準に行動していた、自分勝手な態度をとっていた、そんな時代。
イエス様は山上の説教で、
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなた方を噛み裂くことになります。マタイ7の6」と言われています。
主は、みことばに心から耳を傾けて聴こう、そしてそのみことばに生きよう、従おうとしない者に事を成されないという事です。
旧約聖書ではサウル王のことが挙げられました。第一サムエル記28章において、多勢のペリシテ軍に脅威を感じ、追い込まれたサウル王がどうしたらいいか御心を伺うという箇所です。
主に従わず、強情で信仰のないサウル王に対して、主は返事をされず、沈黙されます。
困り果てたサウルは、なんと霊媒師のところへ行き、そこで「サムエル」を呼び出すのです。「困りきっています」と。預言者によってでさえ、もう神はサウル王に応えてくださらなかった。
紀元前8世紀に預言者として遣わされたアモスは、「やがて飢饉が来る」と預言しました。
「それはパンの飢饉ではなく、みことばを聞くことの飢饉だ」と。
新約聖書において、イエス様が生まれ故郷に戻られた際「こんな田舎のナザレからなんの良いものがでようか」と言われた時に、そこにおいても彼らの不信仰ゆえに、イエス様は力あるみわざを行われなかった。
イエス様は、ヘロデ王に対しても、何もお答えになりませんでした。
警告に対して頑なな人に対してイエス様は沈黙を守られ、彼らはイエス様から何も受け取ることができない。
イエス様は「あなたがたは聞き方に注意しなさい。」(ルカ8章18節)と言われました。
私たちは常に、聞き方に注意していなければならないこと。
自分にとって耳聞こえの良いことは聞くが、都合の悪いことには耳を塞いでしまう。それはまさにみことばを聞くことの飢饉であるということ。
しかし、4節以降から神様の憐みが語られていきます。イスラエルの暗黒の時代の沈黙を打ち破るかのように、神様がサムエルを呼ばれるのです。「呼ぶ」というワードが10節までの間に7回も繰り返されています。
この言葉が繰り返し使われているということに神様の愛の働きかけを知るのです。
暗黒の時代の中、呼ばれたサムエルも自分を呼ぶ声が誰なのか、わからない。
しかし、神様は3度もサムエルのそばに立ち「サムエル!サムエル!」と呼ばれるのです。
神様の目的は「すべての人が救われて真理を知るようになること」であり、人々が祝福に預かって欲しいと願われているということ。主はいつまでも沈黙を守っていたいとは思っておられないこと。サムエルを通して、御心をお語りになりたい。その熱心。
そして、その神様の愛に応えるように、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」というサムエルの純真な信仰に、私たちは学び、この姿勢を模範としていきたいと思わされました。
同じ礼拝において、神からみことばを聞く場面においても、聞く人があり、そうでない選択があるということ。主が聞き方に注意しなさいと言われたその言葉を心に刻み、常に神の言葉を、声を聞く心の準備を求められていることを示されたことでした。
❷真の預言者とは
神様からサムエルが語られたことは、エリの家に起こる裁きについてでした。
乳離れして神殿に預けられたサムエルにとってエリは、愛情を持って我が子のように育ててくれた父であり、子弟と言えど、親子のような深い愛を持っていたに違いありません。
サムエルは、そのエリに向かって、神の裁きを語るなど、とてもできないと恐れを持った。(15節)しかし、エリは、神の言葉はきっと自分のことと推測したのではないか。だから
17節において、すべて隠さず語れとサムエルに言いました。
かつてある牧師が「牧師は講壇に立つときは預言者だ」と言われたそうですが、
一つの教会で講壇を守っていく牧師は預言者であり、神がその人を通してその教会の民にみことばの真理を語るために召しておられるということを覚えます。
それゆえに、その説教者、預言者は、主の前に恐れと緊張感を持ってそれがたとえ厳しい言葉であっても、人々を喜ばせ夢を与えるような言葉でなかったとしても、主に語れと言われたことを忠実に語ることが求められているのです。神の言われたことを語り、それが起こってゆく。ゆえに、神のメッセージを引用しながら自分の思惑・考えを語り、神の語られる事と別の事を語るならば、それは預言者の働きではない。
サムエルは、神からの言葉に、勝手に慰めを付け加えたり、薄めて「大丈夫ですよ。エリ先生」などと伝えなかった。神が語られた通りに、心に痛みを覚えながらも語った。
主を恐れる預言者として、ふさわしい姿勢、従順でした。
❸主の臨在の祝福のうちを歩みましょう。
20節において、イスラエルの北から南に至る全土において祝福され、また21節において
神の言葉が、サムエルを通して、ずっと継続してイスラエルに語られるようになったことが書かれています。
この最後の21節の言葉は、最初の1節の「神の言葉はまれにしかなく・・・」という言葉を見ると、劇的な変化を表し、新しい時代の幕開けを語っています。
これはイザヤ6章9節に書かれているみことばです。もしも私たちが不従順な態度を取り続けるならば、いくらみことばを、聞いたとしても、それを悟ることができない、それが生きた力となっていくことはない。
サムエルの姿勢から、心低くし、また神の言葉を恐れを持って耳を傾け、そこに従うという姿勢を学び、今週も「主よ。お語りください。しもべは聞いております。」そのように
日々、主に聞き、祈る。みことばに生かされるものとされたいと示されたことでした。
今週も主の守りがありますように❣️
「人を恐れると罠にかかる。
しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。箴言29章25節。」聖書
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