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「イエス様の実地訓練」*ルカ8章1〜3節

更新日:2022年6月29日




2022年がスタートしました。この新しい一年も主に従い、導かれ、成長を与えられるときとされたいです。


メッセージは、「婦人たちの奉仕」と題してルカ書8章より。

❶イエスを支えた婦人たち

ルカ4章44節において、イエス様がユダヤの諸会堂で、宣教を続けられたことが書かれてあります。やがてイエス様は8章1節にあるように、ガリラヤ地方の町や村を周り、神の国の福音を人々に伝えられました。この時、同時にそこで12人の弟子に対して実地訓練をもされたのでした。それは、ただ単に学びのテキストを渡し、心構えを語られたというのではなく、ご自分の姿を見せることを通して伝道とはこのようにするのだと教えてくださったのです。

それゆえに、弟子たちは、イエス様が後に天に帰られた後も、師がなされたように、町々や村々をまわって福音宣教の業に努めることができたのです。


マニュアルを渡しての訓練でなく「わたしを見て、ついてきて、そしてわたしがやったようにあなたもやりなさい。」とそのように丁寧に時間をかけて弟子たちにお手本を見せて、育ててくださったイエス様。


そして、この訓練のとき、12弟子のみでなく、今日の箇所に出て来るような多くの女性たちをも主に仕えることを良しとしてくださり、このような「仕える人々」の働きを用いて伝道生活を送られたイエス様のお姿を思いました。


無限であられる神が、ご自分の持っているものを捨ててまことの有限の人となってくださり、食べなくては寝なくては生きられないという能力・体力に限界をもつ姿にまで降りてきて下さった。そしてそのイエス様のお食事や洗濯、身の回りの世話をする彼女らの存在を疎まず、一緒に旅することをお許しになったということ。


このような人々によっても、イエス様のお働きが進んでいったということを改めて思います。

イエス様は、「わたしは神だから仕えてくれなくて結構」と言われず、彼女たちの奉仕を喜んでくださった。しかし、全ての人がこのようにイエス様につき従えたのではないということも知らされます。


マルコ5章14〜20節には、イエス様に悪霊を追い出していただいた男が登場します。彼はイエス様にお供をさせてほしいと、ルカ8章においては「しきりに」願ったとあります。

しかし、イエス様はお許しにならず、彼にこう言われたのです。

「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主がどんなに大きなことをしてくださったか、どんなに憐れんでくださったかを知らせなさい。」と。


今日は礼拝の中で役員任職式がありました。主に選ばれた方々が、主の前に誓う厳かな式ですが、同時に全ての聖徒はこの役員を励まし、文句でなく祈りをもって支え、共に教会を建て上げるということを覚えたのです。私たちの体が、手だけ、足だけ、口だけ、頭だけ・・・と一部分しか動かないのでなく、各器官全てに神経がつながり体が動いて機能しているように、教会の一人一人それぞれが神の賜物を頂き、お互いの欠けを補い合う存在であるということ。


かしらであられるキリスト、12人の弟子の他に、この婦人たちの奉仕があり、ミニストリーが拡大していったことを覚えつつ、麗しい交わりの教会においてくださった神様に、私たち一人一人は何を持ってお仕えすることができるか・・・・考えさせられたことでした。


❷奉仕の動機

8章3節に「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ」という女性が出てきます。

ここで、私たちが気付かされたことは、彼女たちにも家族がいたということです。

では、家庭はどうしたのか。

ある注解書には、「彼女たちは家庭を捨てて、イエス様に従った」と目を疑うような文章があったそうです。しかし、ここで、はたと気付かされたのです。

マルコ1章17節において、

ペテロとアンデレ兄弟が「わたしについてきなさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう。」とイエス様からお声をかけられます。

するとその次の節に、「すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った」とあるのです。

ペテロには妻子がいました。姑もいました。しかし彼らは声をかけてくださったイエス様に従うために、職も家族も捨てたのです。(後にペテロの姑が熱を出し、イエス様が手をとって起こされ癒されたという記事がマルコ1章31節にありますから、家族の理解があったこと、家族の献身の思いがあったことも見ることができます。。。)


以前見たJ.I.Packerの動画に、「私が神様を見つけたのではない。神様が私を見つけてくださったのだ」という言葉を聞き心打たれました。私が神様を見出し、選んだのではなく、

神様がまず私を見出し、選んでくださったのだという真実に、改めて心打たれたのです。

そして、その神様の深い愛を思うときに、感謝が込み上げてきて、救いをいただいた私は

神様を選び、神様の喜ばれる道を選ぶという選択を常にさせていただくのです。


家族を捨てるとは、少し激しい言葉です。しかし、日常の中で、神様との交わりの中にあって前に置かれてくる選択を、一つ一つ私たちは問われているのだと思いました。

ルカ9章24節にあります。

「自分の命を救おうと思うものはそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。」

またルカ18章29節にある言葉も思い出しました。

「まことにあなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれ一人として、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けないものはありません。」


私たちは、イエス様から与えられた使命に生きるときに、2つのものを持っていてはついていけない。優先順位を主に置くときに、私たちの心を見つめておられる神様は、それを喜んで下さって、私たち以上に私たちの生活を支え、家庭を支え、祝福してくださる。

(5つのパンと2匹の魚の話も思い出しました。まず献げたときに、それを幾千倍、幾万倍にも変えてくださいました・・・。)その信仰を持って一歩前に進み、感謝を持って仕えることの素晴らしいこと・・。


イエス様の送られた3年半の公生涯。この8章2〜3節に出てくる女性たちは真心を持って身の回りのお世話をしました。悪霊や病気を治してもらった女性たちは、助けていただいたその感謝を持って仕えたのでした。


ルカ7章47節

「この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」とイエス様が言われています。

多くを赦された私は何を持って主を愛し、主にお返ししてゆくことができるだろうか。


年始に当たり、心探られ、まず選んでくださった主を、いつも一番とし、心からお仕えすることを示されたことでした。新たな一年を主が豊かにお取り扱いくださいますように。

終末の世、困難な中にあって、強め、お用いくださるように願いつつ・・・。


「イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。マルコ1章16〜18節」    聖書


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