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「素晴らしい友情」*第一サムエル記18章1〜19節

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更新日:2022年6月29日


去年のメッセージより久しぶりに、再びサムエル記の講解説教に入ります。

「友情と嫉妬」と題して、第一サムエル記18章より

ゴリヤテを倒したダビデがいよいよ王位を継承してゆくことが記されています。

サウル王はというと、高慢になり、神の霊が彼から去っていきます。このサウルに代わって風格もなく、王家の出でもないダビデが王になってゆくのです。


❶信仰の友ヨナタン

 ヨナタンはサウル王の息子でした。2代目の王として期待されていた人です。よって、ヨナタンにとってダビデの存在はライバルにもなり得たし、邪魔な存在となっても不思議はなかったのでした。ところが、父サウル王の気にいらない人物であるこのダビデが、巨人ゴリヤテを倒してからというもの人々の関心を集める中、ヨナタンの心もダビデに向き「その心はダビデの心に結びついた」とあるように、二人の間には友情関係が結ばれてゆくのです。


自分の立場を危うくさせるかもしれないこの存在を敵対視することなく、尊び、友情を結び、愛したヨナタン。どうしてそこまで、ヨナタンはダビデを愛することができたのか。

ー「真の友情」とは何か。

ヨナタンとダビデはお互いの立場や容姿や性格など外面的なものでなく、彼の内面、つまり、神様に対して持っていた信仰に感動して友情を結んだのでした。


14章を思い出しますと、イスラエル軍がペリシテ人たちとの戦いで、ペリシテ人を恐れてなかなか進む事ができず、王であるサウルも軍の後方で出てゆこうとせず、立ち往生していた中、息子のヨナタンが刀持ちと二人だけで信仰を持って敵陣に乗り込んでいった様子が書かれています。


イスラエル軍は、多勢に無勢、と多くの敵を見て尻込みしていました。しかしヨナタンだけは違った。彼は主が共におられる!勝利を与えてくださる!と勇敢に乗り込んでゆくのです。

大混乱のペリシテ人をたった二人で負かしてしまい、イスラエルは勝利しました。

このヨナタンです。

ダビデが「主が共におられる、この戦いは主の戦いだ!」と巨人ゴリヤテに、槍も武具もなしで石と石投げだけを持って一人立ち向かっていった姿を見て、「これは信仰が成せる業だ!」「ダビデは自分と同じものを持っている!神への信仰を持っている!」と心惹かれ固い友情を結んだのではと語られました。


以前に牧師が、太田和牧師と話す機会があったときに「あなたには信仰の友がいますか?」と尋ねられたそうです。

太田和先生は、ずっと信仰の友などいらないと思っていた。しかし50歳を過ぎてから、そのように思うのは傲慢であると気付いたと。

信仰の友探しは簡単なことではありません。求めなければ与えられない。


創世記の1章26節で神様は「さあ。人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と言われました。三位一体の神様は、交わりを持っておられ、生きて働かれている。同じように私たちは「教会」という共同体の中で、交わり、共に神を見、神に聞く信仰の友が与えられてゆくことは非常に大切なことであり、それは私たちの信仰を深めてゆくのだと語られました。


4節にはヨナタンが、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、よろいかぶとや剣、弓や帯までも与えたと書かれてあります。

これは友情のしるしという意味以上のものがあるのだと語られました。

ヨナタンはサウル王の子であり、そのまま行けば王位はヨナタンに行くというのが通常です。しかし、自分の着物や武器をダビデに渡すという行為は「あなたこそが王にふさわしい。」という心の表れなのだと。


この権威を渡すというヨナタンの行動は、ダビデのまっすぐな信仰に触れた時に「この人こそが王にふさわしい」と心から思える、同じ神を畏れていた人だからこそできたことなのだと語られました。神にしっかりと繋がっている、本当に神を愛する信仰者であったからこそなのだ、と。


神を心から愛し、恐れ、求めてゆく信仰。そこに土台を置く友情。このような友情は固く、素晴らしいことをもう一度覚えさせられました。


❷ダビデを恐れたサウル

ヨナタンとは正反対のサウルです。彼は召し抱えたダビデが活躍すればするほど、嫉妬と敵対心に燃え、女性たちが、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌うのを聞くと、ダビデは俺よりも上なのか?ダビデにないのは王位だけだ!と彼を殺そうとするのです。


サウルからは神の霊は去り、災いをもたらす霊が下ります。彼は狂いわめきます。「琴」を持つダビデに対して、サウルの手にあるものは「槍」、でした。


妬みの心を持つというのは、神の業よりも、自分の成功を見るからではないかと語られました。伝道者の書4章4節にはこのようにあります。

「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士の妬みに過ぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」と。

信仰者の成功の背後には、神がおられるということを私たちは覚えます。


12節から16節には、サウルがダビデを恐れたと書かれています。それはなぜか。ダビデの背後に神がおられることに気づいたからです。

サウルは次の王にダビデがなるということに目を向けて、ダビデが戦場で亡くなるようにと次々に戦場へ彼を送ります。ところが、サウルの意に反して、ダビデは「行く所どこででも勝利を収めた。」(14節)と書かれています。


妬みにもえたサウルの姿から私たちが学ぶべきことは、私たちがそれぞれ、神から与えられるもの、備えられているものを羨んだり、妬んだりするのではなく「神の憐れみは一人一人に十分である」と言われる神様を仰ぎつつ、お互いを尊ぶこと。また人の成功の背後に神を見るべきこと。なぜその人が栄えたのか。その人を用いられた神様に目を向け、神様の御名を賛美すること。


サウルが恐れるべきは、ダビデではなく、主なる神様ご自身なのでした。


❸神は私たちの人生に計画を持っておられる。


17節〜19節において、サウルが娘メラブを与えるという口実でダビデをペリシテ人との戦いに送っていったことが書かれています。送られるダビデは激しい戦場も恐れず、神が共におられたので、勝利してゆきます。サウルはしかし、約束を破るように娘メラブを他の人に与えてしまいます。ダビデにとっては屈辱的なことでしたが、これは神様に対する侮辱となりました。


その後、サウルは今度こそと、もう一度戦いの前線にダビデを送ります。この時はメラブの妹ミカルを与えると約束します。ダビデは、自分は貧しく、身分も低く、花嫁料は払えませんと返事しますが、サウルが提示してきたものの二倍のものを勝利して持ち帰るのです。

サウルは、この時は約束を果たし、ダビデにミカルを与えます。そして、ダビデをますます恐れるようになりました。


私たちがこのことから心に留めることは何か。それは「人は、神様がその人に与えた計画が成就するまでは、決して死なない」ということ。

詩篇の中で、ダビデがいくつもの窮地を通らされたことを私たちは見ます。

あの有名な詩篇23篇を口ずさむ時、私たちは広大な緑の牧草を思い浮かべ豊かな羊たちの平和、平安な状態を想像しますが、ダビデがあの詩を謳った時は非常な危機の中であったということ。「死」を覚悟させられるような状態の中にあっても、必ず敵から守ってくださる神様への信仰をダビデは謳ったのです。


もうすぐ敵の前に、というような最中にあって「私は恐れません。」と謳ったダビデ。

彼が荒野で捕らえらて処刑されたかというと、NO!不思議なように彼は危機をすり抜け守られたのです。それだけでなく、サムエルを通して油注がれたダビデの上に、神の計画は徐々に成就していったのです。


神様は、マイナス、危険というものさえも、神の実現される計画のためにそれを用いられるお方。私たちは、いつか、神の元に召されてゆきます。

しかし、それは病や死で終わるのではなく、恐れる必要がないのです。

神が計画を持っておられるならば、成就させるために、救いの手を必ず伸ばしてくださる。


私たち一人一人に「召し」があること。

神様に従うときに、神様ご自身がそれを責任を持って成し遂げてくださること。

私たちは、生活の中に「災いの種」を見つけると、それだけで心がザワザワッとします。しかし、神が平安のうちに全てを、計画を、握っていてくださると信じる時に、心に平安「シャローム」が与えられるのです。


与えられたみことばを心に留める日々とされたいです。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。ヘブル12章2節」聖書

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