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岸本紘師*歓迎礼拝(10月16日)詩篇42篇

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岸本先生をお迎えしての歓迎礼拝。礼拝には、初めての方・久しぶりの方が多く集われました。

メッセージは詩篇42篇より「私はなおも主をたたえる」と題して語っていただきました。


岸本先生が二宮山西キリスト教会のために何ヶ月も前から祈り備えてくださる中で、まずこの箇所が導かれご準備くださいましたが、ちょうど数週間前に

この詩篇の42篇は、エリザベス女王の葬儀の中でも読まれました。


国葬が主への礼拝式であり、荘厳な空気の中に御言葉と賛美が織り込まれていた神聖なひとときであったことに感銘を受けましたが、

エリザベス女王は生前、自分の葬儀のために第一コリント15章20〜26節、ヨハネ14章1〜6節、そしてこの42篇を選び、歌われた讃美歌も選ばれていたのだそうです。

みことばは、決して「死」が終わりではなく、再臨、御国の希望を語っている箇所を女王が選ばれており非常に信仰の厚い方であったことがそのことからも分かると語られました。


詩篇というのは私たちに神様が「祈り」について教えてくださっている書であると語られました。

私たちは教えられなければ、どのように神様に対して祈ったら良いのかわからないのです。

それはまるで、生まれてから成長過程にある幼い子どもが、親の話し掛けによって「言葉」を習得してゆくように、親が何度も語りかけてくれる言葉を真似ながら覚えていくのと同じです。

祈りは難しいのです。


神社やお寺にお賽銭をもって祈りに行く人がいるとすれば、どのように祈るのでしょうか。

「家内安全」「合格」「結婚」「幸せのために」そういった類のことを手を合わせて、ご利益を願うばかりで「言葉」というものが出て来ません。


私たち人間にとって、神様と交わりを持つということ、「言葉を交わす」深い交わりは、教えられなければ決して知ることのできない世界です。

全治全能の唯一の神様はその乏しい私たち人間に、神様と交わること、神様と話すこと、それらを教えるためにも「詩篇」を備えてくださったのです。


イエス様ご自身も、弟子たちに「主の祈り」を教えてくださいましたが、同時にこの詩篇の言葉で祈られました。最後の晩餐を終えてオリーブ山へいかれた時(マルコ14章26節)賛美を歌われましたが、この詩篇の賛美を歌われ、十字架上で「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と叫ばれたその言葉は詩篇22篇1節の御言葉でありました。



この詩篇42篇は3つの心の動きに分けられ、一つは中央の位置にある点線内「素直な心や懐かしい思い出その心」

右端位置にある太線枠「苦しみ・嘆き」そして左の線内「信仰・希望」であり、

この三つの心が、苦しみを通らされたり、喜びの道を歩んだり、私たち人間の揺れ動く思いを表していることをわかりやすく説明して下さいました。


「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」なぜエリザベス女王がこの箇所を選んだのか。それは、誰もがこの渇きを知っているからではないか。人間誰もが人生において、失望・失敗を繰り返し渇きをおぼえている。問題、悩みのない家庭や教会などなく、私たちは常に揺れ動く人生や心の真ん中で、それでも「神を待ち望め」と全てをよくご存知の神様が言われるということ。


この42篇の作者は、苦しみにある中で、支離滅裂な訳のわからないような祈りをしながらも

その嘆きから恵みに戻ろうとしていました。それは「神は私を絶対に捨てない」という彼の信仰であり、「昼も夜も涙が私の食べ物」と歌いつつも揺れ動く心の先に5節・11節のような「神を待ち望め」という決然とした神への希望と信仰を言い表しているのです。嘆きが多い人生の中、神のみが私の支えであり、苦しいところを通ったことが、より確かに神への希望につながっているのだということ。荒波の中でも感謝しつつキリストを見上げて歩む信仰。


キリストは神のひとりごです。

そのキリストが人となって私たちのもとに来てくださいました。そして私たち人間の苦しみをなめつくされて十字架にかかってくださったのです。キリストは一番低いところにまで降りてきてくださり、私たちの境遇を全て味わい、全てを引き受けてくださったのでした。

十字架刑は当時でも最悪の刑でした。高貴な人が処刑されるときは首を切られるのみで、十字架刑というのは、最悪の卑しい刑であったのです。そしてその十字架上で「わたしは渇く」と言われた。人生に渇く私のために、全ての人間のために身代わりとなって、キリストが渇いてくださったのです。


この神様とキリストの深い愛を見上げる時に、私たちは、苦しみを経験しながらも神を褒めたたえるのです。そして死から甦られたキリストが天に昇り、また同じ姿で来られることを覚えつつ希望を持って生かされていくのです。


詩篇がまた味わい深い書となりました。私を愛し、私のために命を投げ打ってくださったキリスト。深い愛の神さまへの祈りをさらに学びたいと思わされました。希望の主を見上げて。


「しかし、今やキリストは眠った者の初穂として死者の中から、よみがえられました。というのは、死が一人の人を通して来たように、死者の復活も一人の人をとおして来たからです。すなわちアダムにあって全ての人が死んでいるように、キリストによって全ての人が生かされるからです。しかし、各々にその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨の時キリストに属している者です。それから終わりがきます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、全ての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。」第一コリント15章20〜26節


 
 
 

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