礼拝のメッセージはルカ7章11節より
❶この物語の3つの強調点
1 イエス様への信仰が描かれていないこと
2 イエス様のみわざの動機は深い憐みであったこと
3 みわざにふれた人々の大きな反応
13節の、主はその母親を見て深く憐み、とあるこの「憐み」という言葉をルカが
この福音書の中で3回使っていることを知りました。
ここ以外の2箇所は、10章33節「良きサマリヤ人のたとえ」のなかに「ところが旅をしていた一人のサマリヤ人はその人のところにくると、見てかわいそうに思った。」とありますがこのかわいそうに思うという言葉と、15章20節「放蕩息子のたとえ」にある「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い」という言葉です。
イエス様の憐み、神様のご性質である神様の憐みは、私たちのものより深く、はらわたを揺り動かされるような、内臓を打たれるようなそのようなものであると語られました。
頼まれたのでなく、目にしたこちら側の心が動いて何かをしてゆく、それが「憐み」であるというのです。
そして、この憐れみによるみわざを通して、人々は、16節で「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」「神がご自分の民を顧みてくださった」と神を崇めました。
偉大な預言者とは、モーセとエリヤのことを指し、この二人は旧約の代表でもあります。
神が「顧みて」とは、「訪れて」とも訳せる言葉で、人々はこのことを通して神様を崇めたのでした。
❷ここにおられたのは憐み深い神であった
「泣かなくても良い」という言葉は、「泣く」という言葉の前に否定句が置かれた言葉ですが、直訳すると、「もう泣くな」と禁止する訳と、この言葉の前に「もう」をつけた二つの訳があります。ここでは、やもめとなり、たった一人の若い息子が亡くなり、悲しみの淵でただ泣くばかりの女性に向かって、イエスさまは「もう泣かなくても良い」と優しく声をかけてくださったと、そのように語られました。
❸命の源である神
ルカの福音書が書かれて、この7章13節に来るまで、ルカはイエス様のことを、「イエスは」と書き続けてきましたが、この13節にきて初めて「主は」と書いています。ルカは「神であるお方」という告白を込めて「主」という言葉を使ったのです。
ルカはこのルカの福音書と使徒を記しましたが、
ルカ福音書は「福音の始まり」について、そして使徒は「福音が世界でどのように伝わっていったか」を記しました。現在もこの使徒の延長上にあると言われますが、
この使徒3章の中で、ペテロがイエス様について語ったとき「いのちの君」という言葉が使われています。
いのちの君とは、命への導き手、それは「アルケーゴス」という言葉から来ています。
アルケーとは、始まり、始める、始まるという意味であり、ゴスは導き手という意味です。
ヘブル12章2節に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」というみことばがあります。
私たち人間は、神の命を吹き入れて頂いた存在であり、いのちの元は、神であります。
神でありいのちの元である方が、この青年に「起き上がれ」と命じてくださったのです。
この神様が、命を失った者へ命じられたときに、もう一度命が吹き込まれた。
この箇所は、そんな箇所なのだと改めて驚き感動しました。
イエス様が常に私たちの傍にたち、聖霊が内に住んでくださっていること、心の深みにはいり、どうすることもできないところにイエス様が立っていてくださり、
お言葉を持って立ち上がらせようとしてくださる方であること。
イエス様はわたしたちに「もう泣かなくても良い」と声をかけてくださっておられること。
なぜ、大丈夫なのか。それはイエス様がいてくださるから。
「わたしがいるではないか」とお声をかけ、私たちの涙を全部拭い去ってくださるお方。
いつも傍にともにいてくださるこのイエス様と地上の歩みを歩む幸せをもう一度感謝、
示されたことでした。
びっくりしました。CSのメッセージの暗唱聖句は、このヘブル12章2節でした。
CSに出た人たちは、その後礼拝でこのみことばが出てきて驚いたのではないでしょうか。
今週もこのみことばを抱きつつ、主を見上げて歩みたいと思います。❣️
礼拝の後は、百合ヶ丘でのフードバンクの視察に行かせていただきました。
沢山いらっしゃっていました。大変な中にありますが、できることを探っていきたいと
思いつつ・・・お話をお聞きしました。
今週も主の豊かな恵みと慰めと励ましが、導きがありますように。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。ヘブル12章2節 聖書
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