秋の風を感じる一日。神様の恵みと守りに感謝溢れる朝です。
今日のメッセージは「信仰による義」と題してローマ書よりメッセージ。
❶異邦人とユダヤ人の違いについて
「キリストは神であるのにその在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまでそれも十字架の死にまで従われました。」
これは、ピリピ書の2章6節のみことばですが、このようなキリストの救いの福音を、
異邦人は感謝して受け入れ、神様のみことばの約束を信じて、永遠のいのちを得ました。
ところがユダヤ人は。彼らは神様が救いのために用意してくださった尊いキリストを信じず、自分の力で、自分の行う義によって義とされるのだというところに立ったのです。
「木にかけられるものは呪われているものではないか!」「イエスキリストなど救い主ではない!」とイエス様を受け入れませんでした。そんな彼らにとってキリストは「つまずきの石、妨げの岩」であったのです。(ローマ9章33節)
イエス様は、罪を全く知らない聖い神の御子。そのような方が、罪で汚れ呪われている私たちの代わりに、本当は私たちが神に裁かれて十字架にかけられなければならないのに、全てをその身に負ってくださった。
ああ、そのお姿は私のためだと心を砕いて素直な心で感謝して救われたのは異邦人であり、
そんなことは信じられないと退けたのは、ユダヤ人でした。
❷自分の義ではなく神の義を求めましょう。
パウロはダマスコの途上でキリストに出会うまで、熱心にクリスチャンを追いかけ捕らえては牢獄へ入れていました。(使徒8章3節)
その残酷な迫害は、パウロの神への熱心によるものであったのです。「神のため」。
しかし、さらにクリスチャンを引きずり出し縛り上げるために出ていったダマスコの途上でイエス様がパウロに出会われます。
「サウロ、サウロなぜわたしを迫害するのか。」と。(使徒9章4節)
そこでパウロは気付くのです。「神のため」と一生懸命働いていた。しかし、この自分の働きは神様の働きを妨げていたんだ、と。彼の人生はここから180度向きを変えられて行ったのです。
自分の熱心なのか。神の熱心なのか。
私たちは、自分の働きが正しいと確信しています。しかし、主の前に静まり、立ち止まって主の声を聞くべきことを求められていることをもう一度考えさせられました。
もう一つイエス様が愛されていた兄弟姉妹の話が出てきました。マルタ・マリヤ・ラザロ3姉弟です。(ルカ10章38節)
イエス様と弟子たちが彼らの家に寄られて、食事を共にしましたが、姉のマルタはもてなしのために大忙し。一生懸命動いていました。あれやこれやで落ちつかず、のそんな中。はたと気づくと妹のマリヤはイエス様の足元に座ってじっと主のみことばに聞き入っています。少しイライラしながら、マルタはイエス様にいうのです。
「イエスさま。私だけが一人忙しくもてなしをしているのです。妹のマリヤに手伝うように言ってください!」と。
イエス様が、ああそうだね。マリヤ、姉さんを手伝ってあげなさい。と言われたかというとそうではない。イエス様はマルタに優しく言われたのです。
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って心を乱しています。しかし。必要なことは一つだけです。マリヤはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」と。
私たちの仕事で、「神のみことばを聞く」こと以上に大事なことはありません。
私たちのことをよくご存知の神様は、まず私たちがご自分のところにきて、そしてそのお言葉に聞くこと、御心を求めることを望んでおられるのだということ。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」マタイ6章33節
私たちは自分の義を立てようとするなら、神の国に入ることはできず、神の義である十字架を信じそこに生きようとするなら神の祝福される人生のスタートに立ち、幸いな歩みを与えられる。
今週も神の国とその義とをまず第一に求める、そのような日々でありますように。
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