春の訪れを知らせる「オオイヌノフグリ」そして梅林の向こうに富士山。
17日の祈祷会のメッセージは21章より。
❶1節
「王の心は主の手の中にあって水の流れのよう。
主はみこころのままに、その向きを変えられる。」
イスラエルの王として神にたてられたソロモン王。最高権威が与えられ、思いのままに振る舞うことができたソロモン王の言葉です。
ソロモンは、その王がたとえ神を敬わない異邦人の権力者であったとしても、それでも、神の手の中にあっては、神が御心を行うために、その心に働いて事を行われると言っています。
イエス様の誕生の時を思い起こしました。当時のイスラエルを治めていたのはカイザルでした。イエス様はユダヤのベツレヘムにお生まれになりましたが、ヨセフとマリヤは婚約中、そこから何十キロも離れていたガリラヤのナザレに住んでいたのです。
イエス様が、ナザレではなく、ベツレヘムでお生まれになったのは何故か。
それは旧約の「救い主はベツレヘム(ダビデ王の出生地)で生まれる。」という預言の成就のためでした。もしナザレで生まれていたら、神の言葉に反することになります。
ここに神の介入がありました。皇帝アウグストが「住民登録せよ。」と勅令を出します。
ナザレに住んでいたヨセフは身重のマリヤを連れてはるばるベツレヘムへと向かうことになり、そこでイエス様は誕生されました。
皇帝アウグストは、自分を神だと人々に言わせ、それを告白できない者を粛清し、殺していったような人です。しかしそんな彼の心に、勅令を出す思いを与えたのは主であり、これはまさしく預言の成就へと導かれました。
❷2節
「人には自分の歩みがまっすぐに見える。
しかし、主は人の心を評価される。」
神は、何よりも人の「心」をみられる主であること。
いけにえ(礼拝・集会)をささげる時も、その心をみられるということ。
神の前にささげるという時に、カインとアベルのことが挙げられました。
二人とも、神を恐れて捧げたのに、神様は一方を喜び、もう一方を喜ばれなかった。
神様はささげものではなく、その「心」をご覧になったのです。
アベルは自分自身で最良のものを携え、心を込めて主に向かったが、
カインにはその「心」はなかった。
私たちも、皆礼拝に集まります。
しかし、同じ場所にあっても、ある人の賛美や祈りは受け入れられ、ある人のものを
主は退けられる。自分では捧げていると思っていても、それを受け取ってくださる主が
よく見極めておられるということに心を留めなければなりません。
イエス様は、また、弟子たちの真ん中に、子どもたちをよび、そして抱き上げて祝福されました。「神の国にふさわしいものはこの幼子のようでなければならない。」そう言われたのです。子どもたちに対して、何故騒ぐのかと排除しようとする弟子たちに向かってイエス様は怒られ、大人もこどもも、主に真心を持って近づく者を、主は喜んでくださると、この
幼子の一人のように、神の前に出て、仕えてゆく。子どもの姿勢に学ばなければならないことを教えられました。
礼拝をささげるときに「あなたの心はあるのか?」と主は聞かれていること。
主が「心」を望まれていることをあらためて覚えました。
また、この2節において、主が評価されるポイントを見ることができます。
それは私たちの「心がへりくだり、主を第一としているか。」ということです。
奉仕をするのに、「私はあれをやっています。」「これもやっています。」という態度は
自分は満たされるが神様との関係において、虚しい思いが芽生えてくるのみです。
「自分」でなく、この自分のために命を捨ててくださった「主」のために自分の十字架を負い神に従ってゆくこと。「自分」から解放され、神に仕えるものにされているということに意識を変えてゆくこと。私が生きるのはもはや私のためでなく、キリストのためであるというパウロの告白を思います。
そのために、神の言葉を聞き続け、どうやってそれを私の生き方に反映させていくのか。
「買い取られた者」としての生き方。神の目に「良い」とされる生き方を思いました。
「自分」に固執せず「神」に固執する。この言葉も心に残りました。
祈祷会後に、一人の婦人が「私は今まで、『仕える』ということを考えてこなかったわ。
今日は深い気付きが与えられました。感謝します。」と帰っていかれました。
アーメン!感謝します。
Comments