ギラギラ太陽の照る中、セミが鳴き、朝顔が咲き、「夏」がやってきました。
爽やかな朝、礼拝を主に捧げる恵みに感謝しつつ、今日のメッセージは第一サムエル記15章より「御声に聞き従うほどに」と題して語られました。
8章からずっとサウルについて学んできました。神に立てられ、主の霊が激しく臨んだのに不従順ゆえに彼からは主の霊が取り去られサウルの王朝はサウル一代で終わります。神の霊が去ってしまったサウルに、ここで再び主の命令が語られることに驚きを覚えます。
神様は、人が、私が、どうしようもないものであるにも関わらず、見捨てられない方であることをここでも見るのです。
「聖書は神の愛の金太郎飴」と言った人がいるそうです。聖書はどこを切っても神の愛が語られている。それを読み取れるか否かは私たちの問題であり、見捨てられたと思ったサウルがここでもう一度主からチャンスを頂いているのだと語られました。
❶肉を選んだサウル
この「肉」とは「自分の思い」という意味です。サウルは3節で神様からサムエルを通して、「今行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶せよ。」との命令を受けました。
聖絶とは、「神への捧げ物として、異教の神を拝むものとそれに関する全てのものを神のために滅ぼし尽くすこと」という意味です。
愛と赦しの神なのに?厳しいなと思う言葉ですが、「これはこの世を神の民のみに制圧するためではなく、神を信じる者のために、与えられているのではないか。」と語られました。
私たちは生きている限り、様々なものに影響を受けてゆきます。
アブラハムの甥のロトのことが挙げられました。
アブラハムとロトは豊かになり、お互いの財の中で、もめごとが起こるようになり、別々の場所で暮らすことになりますが、ロトはアブラハムからどこでも好きな方を選べと言われた時に、目に麗しい豊かな町ソドムとゴモラを選び、そこに移り住みました。
ところが、そこは、堕落した町で、神の祝福にあったはずのロトは、そこに住むうちに、いつしかその価値観はその町の人々の影響を受け、彼の発言を聞くと神様の御心とはかけ離れた、ソドムとゴモラの人々の考えにどっぷり浸かったようなものに変わっていることがわかります。
ロトは「神を敬う」と言いながら、実際の生活は、ソドムの人々と同じ生活をしていたのです。
キリスト者になったら、自然に主を信じ続け、主に喜ばれるあゆみができるようになっているかというと、そんなことはありません。
それゆえに自分の身をどこに浸し、誰と時を過ごすのかが、非常に大切なことがわかります。
神を敬うと言いながら、神をなおざりにし、神のご計画・御心ではなく「仕方ないのだ」という人と一緒にいれば、たとえ神を知っている人であっても、その価値観は影響されてゆくのです。
日本において、クリスチャンの人口は今1%もありません。毎週礼拝を守っているクリスチャンは0.2%と言われています。
99.8%が違う価値観の世の中において、影響を受けないということは難しいことです。仕事においてまた地域において、神の民として生かされるということ。
神様は、ご自分の民を神の民たらしめて行くために、必要を考え、「聖絶せよ。」と言われるのです。
また、この3節の命令は、神様が、400年前にイスラエルの民が受けたことをずっと覚えておられて、それゆえであることも知り、驚きました。
2節において、「わたしはイスラエルが、エジプトから上ってくる途中で、アマレクがイスラエルに対して行ったことを覚えている。」と神様が言われています。
イスラエルの民がエジプトを出た時、弱っている彼らを狙いアマレク人たちは卑怯にも襲ってきました。
神様はそのアマレク人の愚かで卑怯な罪を、忘れず、「聖絶せよ」とここで罰を下されたのです。
私たちは、過去の罪に対して、キリストがその罪の身代わりになり、それゆえに神の前にその罪は帳消しのように赦されたということを知っています。
しかし、ここで、「赦された」というのは、その罪がなくなったということではないことを覚えます。
つまり、タイムマシーンにでも乗って、過去の自分に「その罪を犯したらダメだ!」と止めて、罪を犯さないようにできるなら別ですが、私たちの犯した罪は消せない罪であり、主の前に覚えられているということです。そんな罪を全て負って下さった、ないもののように見てくださるキリストの愛、神の愛に触れるのです。そして、それを平気で繰り返してはいけないということも覚えるのです。
6節にはケニ人のことが書かれています。
ケニ人は、さかのぼると、モーセの義理の兄弟ホハブの子孫であり、出エジプトのイスラエル人に対してよく世話をし、親切にし、カナンの地に入ってきたときにも、好意的な態度を持って接してきました。
サウルが今からアマレクを討つから、ケニ人には離れているようにと、勧告をわざわざ送り、守ったのは、神の前に成した善をも、神はよく覚えておられるということなのだと語られました。
9節においてサウルが、神様から全てを聖絶しなさいと言われたにも関わらず、つまらないと思うものは聖絶し、価値があると思うものは残したことが書かれています。
彼は、肥えた羊や、牛、子羊など、最も良いと思うものは、神様の命令を守らず、自分の「もったいない」という思いを優先させて聞き従わなかったのです。不従順の罪です。
表面的には神様に従っているように、人からは見えても、中途半端な信仰の姿勢。
このような信仰について、サムエルは、主の言葉を述べます。
「従わないことは占いの罪。偶像礼拝と同じなのだ。」と。
私たちもここで一度考えさせられるのです。
神のお言葉を聞きながら、どんな向き合い方をしているだろうか・・・と。
「私たちは、私たちの内に、アマレク人を持っている。」そのようにも語られました。
「アマレク」は聖書の中では、「私たちの肉の思い」を象徴して使われており、
神の命令に従えず、それを行えない原因は、「肉と称される自我」であるということ。
心の内で、アマレクが勝利して神様が負けてしまっているような時があるのだ、と。
私たちの人生は、このアマレクとの戦いであり、聖霊によって常にこの心が支配され、勝利に導かれて行くように祈り続けてゆくことが大切であること。
❷神が求められるものとは
11節に「わたしは、サウルを王に任じたことを悔やむ。」
29節に「イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむことがない。」
35節に「主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」と記されています。
11節と35節の「悔やむ」という元々の言葉は「悲しむ。」という意味であり
29節の「悔やむ」の原語は「変更しない」という言葉であるそうです。
愛の神様は、不従順のサウルを悲しまれた、のです。
神様が求めておられるのは、私たちの「心」聞き従う心であるということ。
22節において、
「主は全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞きしたがうほどに喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえに勝り、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
そう言われています。
主はうわべを見るのでなく、「心」を見られるということ。
カインとアベルのことが挙げられました。
神様の前に、二人ともささげものを持ってきましたが、アベルのささげ物は受け入れられ、カインのささげ物は受け入れられませんでした。「献げればいいんでしょう」感動も喜びも感謝もない、そのような「心」を神様はじっと見ておられ、退けられたのです。
だから私たちは、必死になって悔い改め、主がどれだけのことを私のためにしてくださったのかを思い、神に受け入れていただける心を持っているのだろうかと自分を見つめ直し、霊とまことを持って主の前に出てゆくことが大切なのだと、教えられました。
ルカの18章においてイエス様は、この「心」の問題について語られています。
「この取税人のようでないことを感謝します。」と悔い改めもなく、主の前に立ったパリサイと、「私のような罪人を赦し憐れんでください。」と胸を叩いて悔いた取税人が出てきます。神様に認められたのは、実にこの取税人の方でした。
❸サウルのことで悲しまれた神様
30節でサウルは「私は罪を犯しました。」といっていますが、サウルはそのあとで、どうか私の面目をたてて、私と一緒に帰ってください、とサムエルにお願いしています。
サウルが神でなく、人のことばかり、気にして、人からどう見られているか、どう思われているか、そのようなことで、行動している姿を見るのです。
サムエルの落胆、神様の落胆を35節に見ます。
人でなく、神様を見て、神様を悲しませるのでなく、喜ばれるあゆみをするということ。
神様の前に、心低くされ、神が何を語られ、何を求めておられるのかみことばを通して示され、従順してゆく歩み、悔い改め生かされていく歩みを導かれる一週間とされたいです。
日曜学校は、新しい靴でウキウキ元気なヒーローくんが颯爽と走る、くまちゃん落とし(ハンカチ落とし)ゲーム❣️風船を作って遊びました。大きな紙で作った素敵な風船❣️
みことばは、第一サムエル記11章から。「神のなさることは時にかなって美しい。」というみことばを暗唱し、お話を聞きました。サムエル記の1章からお話をよく集中して聞いています。サウル王のあゆみを通して、神様について子どもたちが知ることができ、
この神様が今週もしっかりと私たちを見守り、お支えくださり、「主の時」に必ず、信頼するものを導いてくださることを期待し過ごしたいです❣️
「聞き従うことは、いけにえにまさり、・・・。」第一サムエル記15章22節 聖書
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