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「伴走者のいる人生」*第一サムエル記30章

更新日:2023年2月19日


暑い日々が続いています。先日新聞でこんな記事を見つけました。(以下抜粋)


「NHKのラジオ番組子ども科学電話相談を聞いていて、はっとするような質問に出合った。

『なぜ雨の日を【天気が悪い】というのですか?』思い込みという名の贅肉で分厚く重たくなった常識の脇腹を小さな指でつつかれたような心持ちになった。尋ねた小学5年生の児童は不思議に思った。きっと曇りのないまっさらな心と頭で。なぜ雨=天気が悪い、なのだろうと。・・・気象予報士の誠実な答えも良かった。世の中には雨が好きな人も嫌いな人もいる。けれどどちらかといえば都合の悪い人の方が多い。だから雨の日を『天気が悪い』というようになったのではないか、と。」

子どものまっさらな心。はっとさせられ、その感性に心打たれ、ああ、大切にしたいなーと思いました。

雨が降ったり、猛暑のような暑さに突入したり。私たちを取り巻く自然環境とその変動にただ驚き、それを受容するばかりでしかない人間。しかしそんな私たちをもよくご存知で、日々十分に恵みを与え守りを与えてくださる神様(第二コリント12章9節)を、子どものようなまっさらな心で見上げたいです❣️


さて、日曜学校では先週の礼拝メッセージから「神様の憐れみ」をもう一度学び、楽しい工作もしました。

クワガタの卵から幼虫も育ち、夏の到来を感じます😆


礼拝のみことばは、「必ず追いつくことができる」と題して第一サムエル記30章より


イスラエルとペリシテ人の戦いに出陣せずに守られたダビデとその部下たちは、ツィクラグに帰ってきました。すると、思いがけない惨状が目の前に広がっていました。今までダビデたちに襲われていたアマレク人たちの逆襲です。彼らはダビデたちがいなくなるのを待っていたかのように計画的に彼らの町を襲ってきたのでした。


❶神は回復の機会を与えてくださる

火が放たれて悲惨な状況のツィクラグは、焼け野原のようであったと語られました。

私たちは今ウクライナの惨状を報道で見ますが、攻撃され焼き払われ、家族も何も無くなってしまったその状況にダビデたちは唖然とし、泣いて泣いて、更にはなく力も無くなってしまったとあります。(4節)

人がいない、奪われたということに驚き、怒り、喪失感でいっぱいのダビデたち。しかし、よく考えると、死体が見当たらず、家族たちが殺されなかったということは、この惨状の中にあっても神様の不思議な守りがあったということであると語られました。全員連れ去られ、彼らの心は怒りと悲しみでいっぱいでしたから、そのように主の守りを思うことは微塵もなかったでしょうが・・・。


そして、ここで今までリーダーとして尊敬され、皆が心一つに従ってきたダビデが苦境に立たされるのです。

「ダビデは大変な苦境に立たされた。」(6節)とあります。

うまくいっているときは、民はリーダーを喜びますが、何か問題が起きて嵐が来た時に民の怒りの矛先は紛れもなくリーダーにゆき非難の的とされるのです。


このダビデについてきた者たちは、元々「ならず者」と呼ばれた人々でした。彼らはダビデの元でその恩恵にあずかり、ヨセフやアブラハムもそうでしたが、「神が共におられる

人」と共にいることによって、周りの人々も祝福を受けていました。

しかし、人が恵みを感じれなくなったとき、このような悲しい状態に陥るのです。

「兵が皆・・・心を悩ませ、ダビデを石で打ち殺そうと言い出した・・・」とあります。


ダビデにとって大変な苦境・試練です。

ダビデはどうしたか。サウルに追われてからというもの、苦しさゆえに自分の思い・考えによって決断し道を選んできました。神の御心に聞かずに、罪を犯さないように努力しながらも自分の思いに従って一生懸命歩いてきたのです。

ところが、ここで大きなダビデの信仰の転換期が来たのです。

「ダビデは自分の神、主によって奮い立った」(6節)とあります。


あるべき姿はわかっていてもそこに立てなかった自分を、ダビデは思い知らされたことでしょう。

パウロも言っています。「わたしは本当に惨めな人間です。神の願われることでなく、自分の肉の思いに従っている。。。」と。イエス様も弟子たちに何度も「あなたの信仰はどこにあるのか」と聞かれました。それほど、私たち人間は神の御心に聞くことなく、自分の思いを優先させやすい弱い者であること、大きな主の御心に自分を置くことができない情けない存在である事を思わされるのです。


しかしパウロはピリピ書でこう言っています。

「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。・・」(ピリピ3章14節)

私は惨めな人間だけれども、そこに留まることはなく、弱い者であったとしても設定されたゴールに向かって走り続けるのだ・・・と。

そして、一人で走るのではない、神様がご一緒くださる。最高のコーチとしてすぐ傍にいて一緒に伴走してくださる。たとえ周囲から、不合格だ、不信仰だと烙印を押されたとしても、神は励まし「さあ、歩もう」と言ってくださる。たとえ、その時に良い判断ができなくても回復させてくださり、完走できるように支えてくださる。

私たちの人生は、神様の愛に溢れたマラソン人生。。。


ダビデは、こうして信仰に奮い立ち、恐れ退くのでなく、今までとは違う決断に踏み進んでのです。すなわち、祭司エブヤタルにエポデを持って来させ、神様にこれからの道を伺ったのです。


すると神様は、ダビデに応えてくださいました。「追え!必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」と。


この時代のエポデを用いて神様の御心を聞くということは、現代の私たちにとって「聖書」が与えられていることに置き換えることができます。神のみことばである聖書を通して主が語って下さるからです。

人生の岐路に立たされた時に、私たちが何を持って決断し進むのか。神様に真剣に祈り求める時に、必ずみことばを通して、状況を通して、また何よりもそこに平安を与え、道を示してくださると信じます。

ゆえに、私たちは、自分にとって良いと思うことを選ぶのでもなく、自らの内なる声でもなければ、尊敬する人や友人の言葉からでもなく、神からの言葉をまず尋ね求めること、それが最善・確実な道であることを覚えるのです。

全てを支配され、初めから終わりまでご支配されている神様がかけてくださるみことばを握って進む・・・ということ。


❷悔い改める時に神は何をしてくださるのか。

ダビデたちが主に従った時に、不思議なように助けや道が開かれて、ダビデたちはまる1日の激しい戦いの後に大勝利を収め、彼らの家族も全て取り返すことができました。

初め、ただ惨状に立ちすくすダビデと部下たちを想像すると、町から全ての人々が消えてしまい、ただそれを嘆き、どの方向に行っていいやら何もわからない中で諦めてしまっていたら、この家族、人々は帰ってくることもなかったのです。


しかし、全く先がわからず、見えない中で、ただ主により頼み、この主に望みを託し、信仰をおいて、みことばに従い行動したときに、主は道を開き、彼らに勝利と平安を与えてくださいました。

マラキ書には「十分の一をことごとく宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。ー万軍の主は言われるーわたしがあなたがたのために、天の窓を開き、溢れるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。」とあります。


試してみよ。と言われる主。この主に期待もせず、試すこともせず、ただ立ちつくすならばそれは「信仰」であるのか。主が与えてくださる理性をしっかりと持ちつつも、神の言われ示されるところに飛び込み、従うということ。そこに大きな祝福を見ること。


❸神の恵みを分かち合う者となりましょう。

さて、今回の戦いについてこれなかった民が三分の一いました。べソル川というところまでダビデは600人で来たのですが、もうそこで疲労困憊して200人もの人がダウン。ついてこれなかったというのです。ですから勇士400人でこの戦いに挑んだわけですが、主の戦いですから人数は関係なく主が信仰を喜び勝利をもたらしてくださり、彼らは戦勝品をたんまりと持って帰って来たのです。


ところが、ここで、意地の悪いよこしまな者たちが、一緒についてこれなかった人たちには、分捕りものはあげるのはやだ!家族だけ返してあげてそれで良かろう!と言い始めたとあります。(23節)


ダビデはそういう彼らに対して、それは良くない。公平に分けようと言いました。この戦いは自分たちの力ではなく、神により導かれ勝利が与えられたのだから・・と。神が与えてくださった「恵み」なのだからと。神が私たちのために残しておいてくれた恵み、提供してくださった恵みなのだというのがダビデの考え方だったのだと語られました。

ダビデはそうして、全ての人に公平に分配しただけでなく、他の人々にも戦勝品を分けたと書かれています。(26〜31節)

31節の言葉に少し胸がジンとします。その他の人々というのは「ダビデと部下がさまよい歩いた全ての場所の人であった」と。

ダビデたちが苦しみの中、逃亡している時も、支えてくれた人々の恩を、愛を、忘れることのなかったダビデの人柄を思います。


主から与えられたものを、惜しむことなく分け与えていくところ、そこに愛が生まれ、生きるということ・・・。


さて、サムエル記をずっと学んできましたが、来週で最後となります。

多くを学ばされます。感謝です。


「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。  ヘブル11章6節」

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