まだまだ暑さの厳しい日々ですが、秋を感じる風も吹き、コスモスの花が可愛らしく揺れ、あちこちで楽しそうにとぶトンボの姿も見かけるようになりました。☺️
日曜学校の子どもたちも元気に跳び回り賛美やゲームを楽しみ、お話に耳を澄ませます。
礼拝のメッセージは「罪の告白」と題して第二サムエル記より。
先週の続きです。ダビデが罪を隠そうとしたことに対して神様がどのように働かれたのか。隠しおおせたと思っていたダビデにナタンを遣わし、罪の重さを知らせ、ダビデを悔い改めに導かれた神様です。
❶預言者ナタンによって
第二サムエル記7章にも出てきたナタンは宮廷預言者で王ダビデの個人アドバイザーのような存在でした。このような宮廷付き預言者であるならば、雇い主であるダビデに対してマイナスのことは言わないものです。神の御心よりも主人の機嫌を取ることが多いからです。しかし、ナタンは預言者としての働きを全うします。ダビデ王の罪を暴くために、たとえ話を用いて弱肉強食のように強いものが弱いものから不当に奪っていく姿を語るのです。
話を聞いているうちにダビデは怒りに燃え「そんな男は死刑だ!」と叫ぶのです。その時にすかさず、ナタンは「その男はあなたです!」と切り返すのです。
主は闇に隠れたことも明るみにだし、心の中のはかりごとも明らかにされる(ヘブル4章4節)とあります。全て隠されていたことが神の前に明らかにされ、公表されるということが起こったのです。
ダビデはなぜナタンのたとえ話を聞いて自分のことと気づかなかったのか。
それは、他人事と聞いていたからなのだと語られました。
ー自分の罪とどう向き合っているかー
福音書の中に姦淫の現場で捕らえられた女性がイエス様のところに連れてこられた話があります。人々は「石打ちだ!死刑だ!」と叫びながら、この女性が石打ちに合うことを想像し感情がたかぶっていきました。そこにイエス様の「罪のない者からまずこの人に石を投げよ」という言葉が出ます。このイエス様の言葉が、この場に理性をもたらし、年長者から石を置いてゆくのです。あまりに感情が煽られ、昂り、分からなかったけれど、はたと「自分の心の中にある罪」に向き合わされ、自分も罪人であることに気づいてゆく。すると他者を裁くことなどできなくなるのです。
ダビデも、ナタンに「あなたがその男です」と言われた時に、自分の罪に気づいたのでした。ナタンはダビデに対して三つのことを伝えました。
1️⃣神様はダビデにどれだけ良くしてくださったか・・・一介の羊飼いであったダビデを困難な中も守り、王へと導かれて行ったこと。
2️⃣ダビデが犯した罪の結果について・・・ダビデがウリヤをアンモン人の剣で殺したので、以後ダビデの家から剣が離れることはない。
3️⃣ダビデの家に災いが起こる。
「罪の報酬は死です。」(ローマ6章23節)「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ6章7節)13章以降にもこれらのナタンを通して神さまが語られたことが実現してゆくことになります。
❷罪を告白し、主の前に告白する
第一ヨハネ1章9節にこのみことばが記されています。
「もし、私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」
日曜学校でも語られました。「もし悪いことをしてしまって、お母さんに怒られることがあったらどうする?」牧先生の質問に「うーん。怒られるとわかっていても話す」「謝る」皆真剣に答えていました。☺️子どもたちはとても素直です。
私たち人間にとって罪の告白が難しいのはなぜでしょうか。隠したり、ごまかしたり、嘘をついたり、とぼけたり。アダムとエバもそうでした。神様に問われ自分の罪を指摘される時に、自分の罪を見ようとせず、他人に責任転嫁するのです。
「この女を与えられたのはあなたです」と神様に叫んだアダム。
私たちはややもすると、こんな悪いことをしてしまっても、それも神様が許されているからしたんです、と言ったりもする。
しかし神様というお方は、正直に告白するならば赦してくださるお方であり、そのために惜しまずにたった一人の子であるイエス様を与えてくださったお方なのです。
ダビデは、王としてその権威を守ろうとするならば罪を認めることはできなかったかもしれません。権力をふるいナタンを殺してしまうということもできたのです。しかし、ダビデは自分の罪を素直に認め、悔い改めました。
私たちもこのようにダビデに倣うべきなのだと語られました。
そして、神様はそのようなダビデの悔い改めを即座に受け入れ、赦してくださったのです。
罪はそんなに簡単に赦されるものなのか。人間同士での赦しを見る時、人はなかなか他の人が自分にしてきたことに対して許す事ができず、ずっと根に持ちます。しかし神様は憐れみ深い方で、忍耐を持って私たちと向き合い、私たちが悔い改めるなら、すぐにそれを受け入れ赦してくださるお方であるということを知るのです。
詩篇32篇は、この時のダビデが謳ったものではないかと言われている箇所です。
「私は言いました。『私の背きを主に告白しよう』するとあなたは私の罪の咎めを赦してくださいました。」(5節)
ダビデの罪は赦されました。しかし、その罪を行ったがゆえの苦しみは消え去らず、その苦しみを生涯負い続けてゆくこととなりました。ーダビデはバテシェバとの間に与えられた子どもが死ぬことにより、自分の罪の大きさを知らされることになったのです。
❸憐れみの神
このことはダビデとバテシェバにとって非常に辛い出来事でした。新たに二人にはこどもが与えられました。それが「ソロモン」です。
24節を読むとバテシェバについて「妻」と記されています。
最初の子は不適切な中で生まれたが、次の子は正式な夫婦として与えられているのだと聖書は記すのです。
「神は秩序の神である」と語られました。
秩序の中に、自分を置くこと。
神様はこのソロモンに「エディデカ」(主に愛された者)という名を与えられました。
私たちは罪を悔い改めないときに、神と敵対してしまいます。
しかし、罪を悔い改めるならば、祝福の恵に与る者へと変えていただけるのです。
詩篇51篇17節が開かれました。
「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」
神様は憐れみ深い方で、放蕩息子がどうしようもなくなって、自分の罪がついにわかって破れかぶれの汚いままで父の元に帰った時に、大きく手を広げて赦し受け入れたように私たちのことを待ち、気前よく赦してくださるお方です。
神様がそんなふうに憐れみ深い方であることを知っているなら、罪を指摘された時に、言い訳したり、正当化したりするのでなく、素直に悔い改めて神様の憐れみにすがる、そのようなものとされたいと願います。
「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。詩篇34篇18節 聖書」
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