道ゆくところあちらこちらに紫陽花の花。ほっこりします♡
さて、今週から再びサムエル記に戻ります。しばらく第二サムエル記からの講解説教となります。
「神の賢さと人の愚かさ」と題してメッセージ。
❶人の愚かさ
サウルに追われてダビデが身を隠していたのは、敵のペリシテ人の領主の下でした。そのペリシテ人たちがイスラエルの民と戦うことになった時、神様のご介入があり間一発でダビデはイスラエルと戦うという危険から守られ、戦いに出ずに済みツィクラグに留まっていました。(1節)
そしてこの戦いでイスラエル軍はペリシテ軍に敗北し、サウルは死んだのでした。
ダビデはサウルとヨナタンを心配していたことでしょう。そしてその心配が的中し、ダビデたちはアマレク人の若者によってイスラエルの敗北を知らされることとなったのです。
ボロボロに裂けた服を着て土をかぶっていたこの若者に、ダビデが尋ねます。
「どこから来たのか。状況はどうか。」すると若者は、サウルとヨナタンの死を報告し、しかもとどめは自分が刺したと言って証拠の品であるサウルの王冠と腕輪をダビデに差し出してきたのです。
ところでなぜこの若者がダビデのところにきたのでしょう?しかも証拠の品を持って。。。この若者はダビデが「お前はどこの者か?」と聞くと「私はアマレク人で寄留者の子です。」と答えています。この人は在留異国人でありイスラエルに籍を持っていた外国人であったと想像できます。彼の行動の動機は、サウルにいじめ抜かれていたダビデがきっとこの情報を聞いて喜ぶに違いないと、そしてダビデからの賞賛と報酬を受けることができ、大きな手柄となるのではと期待していたからではないかと語られました。
ダビデの反応はどうだったでしょうか?11節でダビデは衣を引き裂き悲しんだ、とあります。
ダビデは、自分の人生が神に導かれていることを確信し、それゆえにたとえサウルに妬まれ荒野に投げ出され、敵軍に身を隠すような惨めな状況に追いやられたとしても、必ずいつか神が間に介入してくださり、正しく導いてくださると信じていたのでした。
この若者はそんなダビデの信仰、そして神の御心を知ることも、理解することもなかったのです。
「神の御心を求める」と言いつつ、自分の思いが強く働く場面が私たちにもあるのでは?と語られました。「御心を理解したい」と願いつつも、自分の思いの実現のために私たちは立ちやすいのです、と。
ローマ12章2節にはこのようにあります。
「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
私たちが地上で大切にすべきことは「神の御心」です。そして実際にそこに生きるために成すべきことは「心を新たにされ、変えられていく」ということであり、もしもそうでないならば、私たちはいつしか自分の欲や願いに引きずられてゆくことになるのだと語られました。
そして私たちが、御心を求め、そこに生きようとするときに、私たちの内側には葛藤が起こってくるのだとも語られました。
天地創造で、エバが神様の御心を知りつつも、善悪の実を食べてしまったこと。
蛇に扮したサタン、私たちの心をよく知る霊的な存在であるサタンが、私たちの心にも同じように語りかけてくるのです。
聖書のみことばを聞いているもう片方で、サタンの声が聞こえその思いが支配しようとする。
だから、心を新たにし、自分を変えていただくこと。
カルヴァンは「人間の良心は腐りきっている」と言ったそうです。私たちの良心は悪魔が自由に刺激しやすいのだ、と。神が人を造られた時に創造された「良心」。しかしその部分に悪魔が入ってきて、エバがその実を見、それをじっと見つめ、手につかみ、やがて支配されていったように、私たちの心にも同じことが起こるのです。
イエスキリストを心に迎えていくことで「心」が新たにされる、ということ。
神の御心に沿わない生き方をする時に、主の御前に悔い改め、気づかせていただくことの大切さを思いました。
❷神の人ダビデの賢さ
このアマレク人と対比して、ダビデは衣を裂き、断食をして、サウルとヨナタンの死を悲しみます。存命中に散々ダビデを苦しめたサウル王でした。サウルさえいなければ、ダビデはこんな逃亡生活に入ることもなかったのです。しかし、ダビデはサウルに刃を向けることもなければ、サウルに仕返しをすることもなかった。それはひとえにダビデが神を恐れていたからではないでしょうか。
箴言24章17節
「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまづくとき、心躍らせてはならない。」
第一歴代誌16章22節
「わたしの油注がれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」
神様の言葉です。
ダビデは神様を恐れるが故に、このみことばのように、敵として立ちはだかっていたサウルに対してでさえその死を悼み悲しんだのでした。
サウルは神に立てられた器である、と。そのサウルが間違っていて、サウルに手を下せるとしたならそれはサウルを立てられた神ご自身なのだ、と。
裕福であったヨブが全てのものを奪われても決して主の前に一言も罪を犯さなかったということが語られました。ヨブは言ったのです。
「私は裸で母の胎から出てきた。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と。
神はこのヨブの信仰・神への全幅の信頼を認めておられました。
ヨブは神の忠実な僕であったのです。心から主を信頼し、そこに神の目、神の御心があることを認めていたのでした。
もしも、このアマレク人の若者の立場にダビデがあったならどうしただろうか。ダビデは瀕死のサウルの延命を願い、必死に助けたのではないだろうか、とも語られました。
ダビデは神の御心に徹底して生きようとした人物だったからです。
神のみことばに生きる、とは、そのようなことなのだ、と。
ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画の話が語られました。
以前に徳島の大塚国際美術館を訪れたことがあります。レプリカでさえ圧倒されましたから、本物はどんなにか素晴らしいことかと思います。さて、この天井画を完成するためにミケランジェロは細部に至るまで非常に丁寧にこだわり4年もの月日を費やして完成させたそうですが、あまりに丁寧に丁寧に取り掛かっているので、友人が下から声をかけたそうです。「ここからは何も見えないよ。適当にやれば?もう降りてきたら?」
ミケランジェロは上から答えました。「この絵の出来は誰が一番わかると思う?」
友人が返事します。「それは、君だろ」
するとミケランジェロがいったのです。「その通り。私が一番わかる。そして神様が知っておられるなら、最善以外のことはできないんだよ。」と。
手を抜いたらダメなんだ。神様が些細なことまで、ちゃんとわかっていてくださるから。
そんなミケランジェロの言葉が心に響きます。
パウロもまたそのように言っているのだと語られました。
「ただ一つのこと、すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリストイエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」ピリピ3章14節
パウロはこの地上の人生、神の栄光に向かって走っていると言いました。そして、それを神様も理解されている、とそのような感覚を持つなら、私たちの歩みは決していい加減なものにならないのだ、と語られました。
今年の教会の目標聖句は「何をするにも人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」というみことばです。(コロサイ3章23節)
私の仕え方は適当に30%?それとも100%を目指しているのか。
神への礼拝の姿勢はどうだろうか。神様はじっとそれを見てくださっている。
私たちの人生を、大きな選択から小さな選択まで、大きな関心を持って見ていてくださっている神様がおられるのです。
神の前に、やり通しました、とゴールを切れるように、直向きに走っていきたいなあと
願わされました。
「人の道は主の御目の前にあり、主はその道筋の全てに心を向けてくださる。箴言5章21節
聖書」
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