前日夕方は雷鳴轟く豪雨の二宮でしたが、雨が上がって暫くすると小田原方面の夜空に美しい花火が上がりました。夏休みも終わりの時期。まだまだ暑さは続いていますが少しずつ秋の気配もしてきました。トンボが楽しそうに飛び、太っちょ鯉がそよそよ泳ぐ川沿いには露草も美しく咲いています。この季節の変わり目も美しい自然を吸い込んでおきたいと、そんな二宮の聖日です。
日曜学校の子どもたちもそれぞれ楽しい夏休みを過ごし、教会中に元気な笑い声が響きます。
日曜学校はダビデとバテシェバのお話から学びました。良くお話を聞いているなと感心する場面もあり、こどもたちの成長に感動します。
面白いマキセンセイのお話に大笑い🤣ノリノリで答えてくれる子どもたち。
礼拝は「ダビデの罪」と題して、第二サムエル記11章からメッセージです。
一般的に、英雄とされる人物についてその華々しいストーリーのみが残され、汚れたところはうまく隠されて語り継がれることが多い中、聖書はこの素晴らしいダビデ王、歴史にも残り、神様の祝福を継ぐ選ばれし人物を、決して英雄視せず、その恥部まで赤裸々にさらし、むしろそのことを通しても神の恵みを表そうとしていることに気づかされます。
私たちが、このダビデを見ることによって、自分自身の罪とも真正面から向きあう、そのような必要があるゆえと語られました。
❶信仰者の罪
1〜5節までにおいて、イスラエルとアンモン人の戦いの中、ダビデは兵を前線に送りつつも自分は王宮にいたことが記されています。そしてそんな中でバテシェバに目を留めました。
彼女の素性を調べさせ、すぐに部下の妻であることを突き止めます。そしてダビデは不適切な関係を持ち、神様の「姦淫してはならない」という戒めを破りました。ダビデはこの罪を分かっていたのに踏み込んで行ったのでした。幼い時から聞いていたのに、欲が出てそれを抑えられずに罪へと陥ってしまったのです。私たちが罪を犯すときも、このように分かっていて犯すのだと語られました。分かっていても、ブレーキでなくアクセルを踏んで「知りながらも罪を行う」のだと。
ローマ1章32節にはこのようにあります。
「彼らはそのような行いをするものたちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行なっているのだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです」
私たちは罪人です。「皆やっている。法に触れなければ良い。」そうではありません。神を信じても、罪の根は生きていて、それは切り株に生えてくる🌱芽のようにどんどん生えてくるのです。神を信じることにより、その咎めから解放されています。しかし、私たちは死ぬまで常に自分の罪の現実・内側を見せられ葛藤しながら生きるのです。
パウロはローマ人への手紙の中で記します。
「私は本当に惨めな人間です」と。神によりイエスキリストの救いを経験してもなお自分の中に働く罪の力に苦しみ続けたパウロ。自分を「罪人のかしら」と告白しました。
これは私たちにも当てはまることであり、自分の罪の現実、弱さに惨めだなと感じ、神の御心に生きたいと願いながらも心の中にある罪がそれをさせないようにする、そのような罪と常に対峙せねばならない現実を知るのです。そして、その罪を犯しやすい時というのは、試練や困難・苦しみにある時でなく、むしろ祝福されている時、高慢に陥りやすい余裕のある時であるということにも気づかされます。
箴言16章8節にはこのようにあります。
「高慢は破滅に先立ち、昂った霊は挫折に先立つ」と。
常に心低く、神様に祈り謙遜に生かされることの大切さを覚えます。
❷罪を隠そうともがくダビデ
ダビデはバテシェバと不適切な関係をもち、子が宿りました。
人は種を蒔けばそれを刈り取らねばならないとみことばにあるように、ダビデはこの罪を隠すことに必死になります。王としての権威を失い、部下たちからの信頼も失うことになります。またこの十戒を破った罪の責任もあったことでしょう。ダビデは戦場からウリヤをよび様々な姑息な手段で、自分の罪の隠蔽工作をしますが、どれも失敗に終わります。
それは、皮肉なことにこの部下ウリヤが非常に忠実で実直な人であったからです。
彼は「神の箱もイスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも他の兵も戦場で野営しています・・・」と自分だけが休息を得るなどできない、とダビデに誓うのです。彼は純粋なユダヤ人ではなかったと語られました。ヒッタイト人であり、改宗して神の民となったと言います。そして、きっとそれは英雄ダビデの人生に憧れ、それまでの彼の生き様・信仰に感化されたからであり、ダビデを目指して忠実にまっすぐに従い、歩んできた人物だったのです。
そのようなウリヤなのに、ダビデにとっては彼の実直さはもはや疎ましいものであり、自分の罪が隠せないとわかるとすぐに強硬手段に出て、ウリヤを戦場に送り、そこで彼を殺してしまったのでした。
最初は穏便に出ていたダビデがねじ伏せるようにして、自分の名声をかけて、その罪のために一人の人を殺してしまったのです。
(礼拝のメッセージを一緒に聞いていた男の子が思わず「ダビデひどい」と呟きました。「本当にねえ」と私も答えました・・・・😞)
直接自分が手をかけたのではありません。しかし、周囲の人々は知っていたことでしょう。ダビデは自分の思い通りにならないと、忠実なしもべを殺してしまったのでした。
「嘘をついてはダメ」と私たちは教えられて育ちます。一つの嘘は次の嘘を生み出すのです。そしてその罪を隠すために新しい罪が生まれ・・どんどん罪が重なってゆき、周りの人々をも巻き込んで行くのです。
日曜学校ではこのみことばを皆で読みました。
「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして欲がはらんで罪をうみ、罪が熟して死を生みます。ヤコブ1章14・15節」少しわかりやすく説明するとお母さんが私たちをお腹に宿すときに、どんどん大きくなって私たちが生み出されるように
罪もそれがどんどん大きくなってそして出てくるのだと・・・。
❸主の御心を損なったダビデ
ウリヤはこのダビデの恐ろしい思惑により戦場で死んでしまいました。ダビデはバテシェバを宮殿に迎えます。自分の罪が明るみに出ることを恐れたのです。うまくやれば隠せる!と。しかし、この罪は人の目にはうまく隠せても、神の前に隠されることはないのです。
神様は、このダビデの罪をしっかりと残されました。
マタイの1章にはイエス様の系図が記されています。
この1章の6節です。このようにあります。
「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」と。
なぜ聖書は、「バテシェバ」と彼女の名を記すのでなく「ウリヤの妻」と記したのか。
これによりダビデが何をしたのかを示すためです。
ある牧師先生が使徒信条の中に「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」というくだりがあるのを「かわいそうに」と言ったそうですが、2000年もの間、いえ、聖書は永遠の書物ですから、この書にこのように記されているということは非常に大きなマイナスです。
神の御心を損なってしまった事実。しかし、それでもここに記されているのは神の恵みがここにもあることを神様がお伝えになっていることでもあるのです。
神様はこのような系図の先に子孫としてご自分の御子であるイエスキリストを与えられました。聖書がそこを墨で塗らないのは、まさに神の御心を損なうことがあった上に、その罪を背負い、生まれ、そして死んでくださったキリストの恵みを語るためです。
人間が再び罪を犯さなくなるようにではなく「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」というイエス様の系図は私たちが確かにこの恵みの中に置かれているということを示しているのだと語られました。
パウロは「私は本当に惨めな人間です」と嘆きました。しかし、彼の言葉はそこで終わるのでなく「しかし、主よ感謝します。イエスキリストがこんな惨めな私のために十字架にかかり死んでくださったからです!」と喜び、神様をほめたたえるのです。
私のために十字架にかかって死んでくださったイエスさまを見上げつつ、仰ぎつつ、この恵みの中を、謙遜にへりくだって生かされる一週間の歩でありますように。感謝して
「私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエスキリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法につかえ、肉では罪の律法に仕えているのです。ローマ人への手紙7章24〜25節 聖書」
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