暖かい一日でした❣️
今日の祈祷会は箴言26章より。
主の前に「知恵のない者」とは、どんな人のことか。
❶愚かな者
11節〜12節
「犬が自分の吐いた物に戻ってくるように、愚かな者は、自分の愚かさを繰り返す。
自分を知恵のある者と思っている人を見たか。彼よりも愚かな者の方が、まだ望みがある。」
「愚か者」とは原語では「エビール」と記され、旧約では26回、その内19回が箴言に
「愚かな者」は「ケシール」と記され、旧約では75回、その内49回が箴言に使われているのだそうです。
この26章では「ケシール」という言葉が12節までに11回も使われているとのことです。
一度注意され、失敗のゆえに反省・悔い改めたのに、また同じ失敗を繰り返すということは、自分の心を制することのできない愚かなことですが、それ以上に、愚かな行為は、
自分が知者だと思い込んで、人の忠告さえ聞こうとしないこと、と箴言は指摘しています。
哲学者ソクラテスの「知者の知」という言葉が引用されました。
それは、「知らないということを自覚する」ということですが、
専門分野を持つと、人は得手して誇りやプライドが生まれ、それが高慢な言動や姿勢につながります。しかしながら、一部を知ったとしても全体を知ることはできないということを覚えなければならない。
パウロは「素晴らしい伝道者」であり、同時に「貪欲な求道者」でありました。
ピリピ3章12節にパウロのこんな言葉があります。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ、捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」と。
彼は当時の律法教師ガマリエルの元で熱心に学び、その高慢ゆえに、救い主イエスを否定し、信じる弟子たちを迫害しました。キリストは救い主ではない!と。しかし、ダマスコの途上で打たれました。そこでキリストと出会いました。
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」と。
それからの彼は、異邦人への伝道者として変えられ、用いられました。そして生涯をかけて、キリストについて、神について、謙虚に求め続け、学び続けたのです。
パウロのように、私たちも、初心に返り、心低くし、常に求め、学び続けなければならない・・・。
❷怠け者
13〜16節
「怠け者は『道に獅子がいる。広場に雄獅子がいる』という。
戸はちょうつがいで向きを変える。怠け者は寝床の上で。怠け者は皿に手を伸ばしても
その手を口に持っていくのを面倒がる。
怠け者は、良識ある答えをする七人の者よりも、自分を知恵のある者と思う。」
勝手な理由をつけて休み、ベッドでゴロゴロ。。。。貴重な時間がどんどん過ぎていってしまうといった感じでしょうか。
先日朝のニュース番組の特集で倉本聰さんが取り上げられた事が語られました。医療従事者の方々の姿を追った動画を制作しておられるとのこと。その際に倉本さんが言われた言葉は心に刺さります。「私たちがゴロゴロと寝ている間も、彼らは休むことなく働いている」
どれだけ苦労しても報われない、いや、かえってそれゆえに不当な態度を取られたりすることもある、そんなことへの怒りから作ったのだと・・・。
怠けるな。怠け者になるな。ましてや自分が知恵のある者だと思ってしまったら、もう手の施しようがない。このような箴言の言葉を心に深く刻みたいと思います。
❸悪者
17節以降に自分の隣人に対して欺く者のことが書かれています。
20節「薪がなければ火が消えるように、陰口をたたく者がいなければ、争いはやむ。」
21節「炭火に炭を、火に薪をくべるように、口論好きな人は争いをかき立てる。」
22節「陰口をたたく者の言葉は、美味しい食べ物のよう。腹の奥に下っていく。」
23節「燃える唇も、心が悪いなら、質の悪い銀を塗った土の器。」
「言葉」が非常に大切であること。「言葉」は、その人に知恵があるか、ないかの明確なサインであるということ。「言葉」で失敗する人は、自分が掘った穴に自分が落ちるようなものであること。
それゆえに、言葉で失敗しないように知恵を得よ。と箴言は教えていること。
❶愚かな者、❷怠け者、❸悪者、このような道を行かず、「主の知恵」を求めること。
宝・富・名声を優先して求めるのではなく、「主の知恵」を第一に求め、そこに生きることを何よりも優先しなさいと箴言が語っていることを改めて覚えました。
「知恵の宝」は箴言に散りばめられています。
著名なビジネスマンや法律家が聖書から、豊かな生き方について、また成功について多くの知恵をそこに見出し、様々な書物も出ています。しかし、沢山の知恵を持つ者でなく、それを用いる人が本当の知者であること、そのために「主を恐れること」が一番大切なのだと、
箴言が教えている通り、熱心に主の言葉に聞き、従う道を歩む者とされたいと教えられました。
週の残りも気づきが、守りが豊かにありますように。
やはり、二宮は菜の花❣️そして、黄色いチューリップと共に、春の黄色い上着を着てこられた愛する婦人たちを祈祷会前にパシャッ☺️お顔もアップして👌よ!とお言葉いただき、一瞬Noマスクでニコニコ‼️のお顔、載せさせていただきます。
またお花を愛する婦人が、「お庭に自然に出てきて見事に育ったんですよ❣️」と椿の花を下さったので、早速飾らせていただきました。お花の後ろから見た子どもが「あら?これ薔薇?」と一瞬見間違えたほど立派な可愛い椿です❤️
「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどとは考えていません。ただ一つのこと。すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために目標を目指して走っているのです。ピリピ3章13〜14節 」 聖書
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