アモス書2章は1章に続き、北イスラエル周辺の諸外国への裁きから語られていきます。
まず、モアブへの裁きが語られます。モアブは、イスラエルの南北に広がっていた国でエドムとアンモン人の地域に挟まっている地域でした。彼らは、遡るとアブラハムの子孫であることがわかり、イスラエルとは同じ親族関係にありました。しかし同じ親族の骨を焼き非情な事をした事(1節)が問われ、神はその非道でよこしまな姿を嘆かれたのです。
私たちは神の御心を求め、そこに留まるということが大切です。もちろん上の権威に従うことは大事ですが、その時代の力ある人に次々と従ってゆかねば・・というならそれは浮き草のようになってしまいます。「主は葡萄の木。私たちは枝です。」とあるように、私たちはそこにつながる枝であるというアイデンティティが非常に重要であること。「私は誰に繋がり、誰の言葉に耳を傾けていくのか。」ということ。
モアブはその時代の大国と言われる国に次々となびいていき、ここでこのモアブへの裁きが際立って大きく書かれているのです。
そして、4節から神の選びの民である南王国ユダについての裁きが語られます。
この4節を見ると、彼らの罪は隣人に対しての非道ゆえの裁きではありません。諸外国のように残忍な事を行った罪ではなく、特別に選ばれた民であったのに神を捨てて「偶像に傾いていった罪」を裁かれているのです。
「あなたは神に対して誠実に生きていたか。」それが問われているのです。
「誠実」とは何か。それは、今、あなたが、主である神、王である方の言葉・教えに対してどう向き合っているのかということ。
危機や苦難に直面したときに、南ユダ王国は神に信頼する道を選ばず、外国の偶像に頼っていった。神様はその民に、「なぜわたしの言葉に従おうとしないのか」と嘆かれたのです。
目前にある偶像に頼りながら、補助的に神を信じるというのは、信仰ではなく、神の助けがあるからこそそこに生きるという神への誠実な姿勢がまるでなかった。
「困った時の神頼み」という姿勢が、まさに南ユダ王国に突きつけられた切実な信仰の問題であったのでした。
そしてついに、6節から北イスラエル王国への裁きが語られていきます。
6〜7節では「社会的罪」、7節では「道徳的・性的罪」8節においては「霊的罪」。
これまで、北イスラエルの人々は、アモスが語る、諸外国と南ユダ王国への裁きの預言を
喜んで聞いていたのではないでしょうか。当時イスラエルも南ユダも非常に繁栄しており、諸外国は弱い状況にありました。だから、この諸外国の上に降りかかる神の裁きを聞きながら、「また私たちの国は繁栄できるだろう」と喜んでいたのです。ところが、一変します。
自分達にも神の裁きがもたらされる、と。語られるみことばが他人に降りかかるという時点では安心していますが、それが自分たちに・・となったときに変わってきます。
ここで私たちのみことばへの姿勢が問われました。
神の語られるメッセージは、「良いお話」の訳がないのだということ。
神のお言葉は、私たちがそこに対峙するときに、「神はこんなことを考えられご計画されているのか。私はそれに対してどんな生き方をしているのだろうか。」と自分が必ずしも神の御心に、お言葉に合致していない現実に気づかされるからです。
「罪」とは「見当違い」という事です。何か悪いことをすること、それ以上に、真実であられる神の前にどんな生き方をしてきたのか。神の願う道とは的外れな道を歩いている事。
「福音」とは単なる良いお話ではない。この罪を示され主に悔い改め、犠牲を持って愛し赦してくださる主の望まれる道に歩む事である。それは平安で豊かな道であることを知るのです。
ロイド・ジョーンズという説教者が、あるときにメッセージを語り終え、講壇から降りてくると、ある夫人が喜んで近づいてきて言いました。「先生。わかりやすいお話をありがとうございました。非常に良いお話でした。」
するとロイド・ジョーンズ牧師はすぐに彼女に答えたのです。
「知っていますよ。悪魔も同じことを言っていますから。あなたは私が語ったみことばをなぜ良い、わかりやすいというのですか。まだ語っただけなのに。」と。
神のお言葉は、語られた御心を知り、そこに応答して生きたときに初めて、良いとわかるということ。私たちは語られるみことばをただ聞いて終わりにするのではなく、そこに生き
神に誠実に歩むことを常に選択して行くべきことを考えさせられた事でした。
「主はあなたに告げられた。
人よ。何が良いことなのか。主があなたに何を求めておられのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことではないか。ミカ書6章8〜9節」聖書
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